ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(ねむ)

3/11(月)
朝起きたらとても眠くて、会社でもなんとなく頭が重くて、最低限のことをできるだけ急いですませてそそくさと帰宅した。昔はそんなことあまり思わなかったのに、ここ数年、自分の体のいる世界と自分の思考のいる世界が別々の場所にあるなあと思う瞬間が増えたような気がする。普通に歩いているうちに、頭の中をどこかに置いてきてしまったと感じたり、自分の周りだけ時間にかかる重力がとても大きくてぐにゃーんと時の流れが引き延ばされているような気がしたりする。置いてきてしまった頭の中身を手探りで引き寄せたり、周りより重たい時の流れの中を一生懸命泳いだりするうちに、ヘトヘトになってしまう。そういえば大学一年生の頃、バイトのお皿拭きが遅いと怒られてはじめて「もしかして自分って人と違うテンポで生きてる?」と違和感を感じ、サークルの先輩に「私ってマイペースなのかもなって初めて気付いたんですよね」と言ったら、どうしてそのことに気が付かずに今まで生きてこられたのかと驚愕された。私のことをよく見てくれている先輩だったんだなあ、きっと。私のことよく見てくれていたのに、ひどい別れ方をしてしまったから、もうきっと一生会うこともない。悲しいなあとたまに思う。ここのところとても寒いから、それで体がうまく動かせないような気もする。そして暑くなったら、きっとまたうまく動けなくなってしまうだろう。一年のうち、ほんの数ヶ月しかうまく動ける日なんてないのかもしれない。だけど、春になったら暖かくてふわふわした気持ちになってしまうし、秋には物悲しさでぼんやりしてしまうかもしれないし、じゃあもう、あんまり動くことに向いてないんだね。
冬になると毎日鍋を食べるのだけど、最近白菜がどんどん高くなり、スーパーの棚からはどんどん鍋の素が消えていくので、冬の終わりを実感している。春になったら、また献立を毎週考えなければいけない。面倒くさいなあ。鶏胸肉のみぞれ煮、塩肉じゃが、茄子とピーマンとひき肉のトマト煮込み、じゃがいもときのこの炒め物(オイスターソースとコンソメと醤油、どれがいいだろう)、鍋の季節のあいだ食べられなかった美味しいおかずのことを考えて気を持ち直す。新じゃがの皮を剥かなくてよいのも、春の素敵なところである。
また、一昔前の自分の文章を引っ張り出して読んでみた。何か系統立てて物事を語るということが壊滅的に下手な人間の文章だった。「すりガラスの窓をあけた時によみがえる埃の粒たちを動かずに見ていたい」的な細部執着型の、遅々として進まない描写が並んでいた(こんなことを言うためにスピッツの歌詞を持ち出してはいけない)。だけど何しろ書いた張本人たる私が細部執着型の人間であるので、書いたときに思い浮かべていた細部をなぞりながら読むのはなかなか楽しく、他の人が読んだらなんじゃこりゃという文章であっても、書きたいものを書いて残しておくというのは、よいことであるなあと思った。
滑り込みで書いておくなにか。人の書いたものを読むのは楽しい。親友と続けている文通も楽しい。長い文章をゆっくり読んで渡して、というコミュニケーションは心の健康に寄与するのではないか、私の場合。そうだ、今日起きたら、原因不明の切り傷が親指にできていた。ちょっと痛い。もう眠いな。眠ります。