ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(書きたいことだけ)

4/15
・香港で見る英語と、日本で見る英語は私にとって別の現れ方をする。日本で見る英語に親しさはないが、香港で見る英語には親しさがある。
・英語もフランス語も大してできない私だが(謙遜とかではなくてガチでできない)、英語を話す人間よりもフランス語を話す人間の方が理解可能であると感じる。それは意味を取れるかどうかという問題ではなく、フランス語という言葉の身振りに私がより馴染んでいるからだ。私にとって生きている言語とそうでない言語。
スピッツを聴くとき、スピッツではないことが浮かんできてしまうようになった。それはときによいことであるけれども、そうでないときもある。
・ある思考の癖、表現の癖、モチーフの癖といったものについて考えるのが好きだ。だから私は癖の反復性が強いものを好み、スピッツはその最たるものの一つである。スピッツの癖について、一人で聴いていた頃から幾度となく考えてきた。その癖についての思考は、あえて大袈裟にいうのであれば、自分の中に持つ信仰のようなものであると感じるようになった。この「信仰」とは、スピッツについての信仰ではなく、スピッツについて私が考えたことについての信仰である。そして、そのように考えることは、おそらく自分以外のものを自己固有化し排他的になってしまうことに対する、一種の言い訳にすぎない。
・私がよいと思ったことについて、よいと言ってもらえることが好きだ。だけど、よいと思ったことが理解されること、あるいは理解されないこと、どちらも少しだけ痛い。
・「私の痛みに対するスピッツ」という問いが「スピッツに対する私の痛み」という問いにすり替わることを恐れている。私が考えていたいのは、私の生活におけるスピッツについてなのであって、スピッツ生活における私についてではない。
・「君」という存在、それは私にとって「いまだないもの」あるいは「もはやないもの」というかたちで現れる、僕の中の空虚の輪郭である。それはバラバラにちぎれて動作しなくなった世界をつなぎ合わせるための、意味の核なのだ。そうではない「君」について考えてみる必要がある。僕の強さと弱さのネガとしての君、今ここではない場所への逸脱を司る君、そして純粋に愛しい存在である君。スピッツを現実に引き下ろしたくないという気持ちが種々の妄想を生み出している。
スピッツとは、私にとって理解可能な言語である。でもいったい何が、その理解可能性を成立させているのだろう。中国語よりも英語が、英語よりもフランス語が、フランス語よりも日本語が理解可能であるように、スピッツが私にとって理解可能なものとして現れてくるのはなぜなのか。
・現れたり消えたりする理解可能性。スピッツが理解可能であると思えない日がある。あるいはもっと細分化して、スピッツのある曲が他の曲より優れて理解可能であると感じられる日と、その曲の意味が埋没してしまう日とは、必ずしも遠く離れているとは限らない。現れては消えて、そしてまた現れる意味のこと。