ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(春、迷い、アップルパイ)

3/16(土)
春の天気。嬉しくなって両国での用事の帰りに一駅分散歩をした。太陽を浴びるのが好き。家には遠赤外線ヒーターがあって、冬になるとエアコンではなくてそのヒーターの前に座って暖をとる方が好きなのだけど、もしかしてそれって太陽と同じこと?ですか?散歩がてら、お昼ご飯を外で食べた。今週は無性にタイ料理が食べたくて、土曜日に食べるぞと意気込んでいたのに、いざ土曜日になったら急速に食べたい気持ちが萎んでいき、タイ料理屋さんに向かう途中で見つけた小さなお蕎麦屋さんに入ってしまった。ミニカツ丼セットを食べた。カツに胡椒が効いていて、ジャンキーな味わいだった。蕎麦はもちもちとしていておいしかった(蕎麦がもちもちしているとして褒めるのは正しいのだろうか?)。両国は今、お相撲さんがみんな留守にしているので、なんだか神無月みたいな感じで、神無月みたいな感じって何?少し寂しいような気がした。少し春服の様子を見たりもした。何を着たらいいのかイマイチわからない期間がしばらく続いている。絶妙にツヤのあるリネン生地のとてもかわいいオールインワンがあったので試着させてもらい、まあまあ似合ったのだけど値札を見て断念してしまった。あと、そもそも着たとき、一瞬「オシャレすぎて私には似合わないかも」と思ってしまった。そんなこと、これまでほとんど一度も思ったことなかったのに!好きなものを好きなように着るべきであるという正義を掲げ、それを信じて疑わずに生きてきた。今も信じるべきであると思っている、だけど、無視できない「?」が浮かぶことが増えてきて、その「?」が生きているうちに刷り込まれてしまった汚れなのか、それとも感覚の深化なのか、判断できずにいる。自分という存在を客観的に評価できるようになってきたということなのか?


ひみつストレンジャー展がはじまった。行こうか行くまいか、非常に迷っている。実はひみつストレンジャーをまだ買っていない。マサムネさんが惚れこんでいる画家さんとマサムネさんの大事に大事に作られた本であることはよくよくわかっている。それでも、私はひみつストレンジャーを「スピッツ」として認識できるのか正直あまり自信がない。できる可能性ももちろんあるけど自信がない。というか、そもそもそれを「スピッツ」として認識できなかったとしても素敵な作品として鑑賞することはできるに決まっているのだが、行ってみて、読んでみて、思ったほど興味をもてなかったらどうしようと思っている。今、絵というものがよくわからなくなってややセンシティブな状態だということも不安材料で、行ったら楽しいかもしれない、だけど行ってからすごく心が疲れてしまったらどうしよう。さすがにあまりにも他者に対するキャパシティのレベルが幼稚すぎる。別に、カジュアルに楽しめばいいのだけど、「曲」というスピッツの根幹とモロに関わるので、自分の中の慎重スイッチが入ってしまっているのだと思う。でも、そんなこと言って、結局サクッと行って楽しく帰ってくるような気もしている。


Twitterで、机の上にあるアップルパイを指して「美味しそうなアップルパイがあるね」という時、そこになんの含意もないということはコミュニケーションの場においてあり得るのか、というツイートが流れてきた。当然あるに違いないのだが、その発言が果たして「コミュニケーション」という双方向の言葉のやりとりとしてうまいのかというと、それはたぶんどちらかといえば否である。「美味しそうなアップルパイがあるね」という発言はたぶん相手からの具体的なレスポンスを想定していない、と思うのは私がまさに「美味しそうなアップルパイがあるね」と言うタイプの人間で、それを言う時私は全然相手からのレスポンスを考えていないからだ。というか、私としては「ここになにそれがありますね」という報告に「本当だねえ」と相手が返してくれれば、それで安心し、ことは済むのである。このコミュニケーションはつまるところ、言葉を覚えたての幼児が対象物を指差しつつ親に対して「くるま!」「ワンワン!」「おほしさま!」などと言うのと同じことなのであって、私はひょっとするとこの「くるま!」「ワンワン!」「おほしさま!」に該当する要素の複雑性を進化させてきただけの幼児なのかもしれない。かつて友人が「自分はだれかに独り言を聞いて欲しいだけなのだ」ということを言っており、そして実際私たちは一緒にいた間、お互いに独り言を言い合っていただけのような気もするが、多分私も、相手からの応答を想定しない言葉を、つまりは独り言を聞いて欲しいだけなのである。多分も何も、このブログ自体がすでに長大なひとりごと以外の何物でもないが。この文章はすべて、「ワンワン!」を20余年かけて複雑化させた産物である。