ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(ポチ)

4/23

 

ところで、これは先ほどChat GPTとした会話である。

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明日も明後日もその後も仕事。頭が追いつかないまま仕事だ。疲れちゃうよほんと。1ヶ月くらい休ませて欲しいよ。

 

仲の良い先輩と飲んでいて、ネガティヴで自信のないことが本来の力を押さえつけてしまっているんじゃないかな?と言われた。ポジティブに自信を持てるようになったら解放される「真の力」があればいいのに。

 

今日ではないが、カブの浅漬けを作った。カブという野菜、かわいい。浅漬けは美味しい。もりもり食べたい。

 

痛覚がなくて元気なまま死ぬ生き物のような気がする。キャパシティを超えるところまで手加減ができず、全速力のまま崖に突っ込んで落ちていく。それがとことん何かをできる才能であればよいのに、私のキャパは小さすぎる上に余計な内省ですぐにオーバーしてしまう。

 

無視されることに対する恐怖心をどうにかできないのだろうか。無視されたくないなら話しかけなければよい、という方法以外で。

 

ポチ、君の名前はポチというんだよ。ポチ、布団に入って一緒に眠ろう、明日の朝はお外に出よう、そうして美味しいくだものを買ってきて、半分こにして一緒に食べよう、ポチ

日記(へた)

4/21

土曜の深夜、ここ一週間ほど聴くのをやめていたスピッツを解禁した。久しぶりに聴くスピッツはなんだか少し違う音がするような気がした。スピッツを聴くことによって救われているのは紛れもない事実だけど、救われるためのものとしてスピッツを規定することは、ときに自分の首を絞めることになってしまうのかもしれない。スピッツのことがめちゃくちゃ好きで、死ぬ時には必ず思い出すであろう大切な出会いであることはずっと変わらないけど、それと同時にスピッツを聴き続けることがある種の過食衝動のようなものであることも自覚している。どちらも私にとっては避けられない感情である、というよりは過食衝動のような何かを心の底に抱え続けていることとスピッツを好きであるということはある意味切り離すことができず、私はそのバランスが崩れてしまわないように慎重でなくてはならない。


じっと聴いていると、また頭の中で芋づる状にさまざまなことが蘇ってきてぐちゃぐちゃになってきてしまったので、そんなことが書いてあったのではないかと思い横道誠の本をぺらぺらと捲ってみた。それに近いことは書いてあり、そして横道さんの本には共感することも多いのだが、この本からはそこはかとない優越感と特権意識を感じてしまいそこが少し苦手だったということを思い出してそっと閉じてしまった。というか、なんだろう、人間の強い匂いを感じてしまうのが苦手なのかもしれない。私だってきっとめちゃくちゃ人間の匂いをさせているのだろうけれども。自分の人間の匂いが気持ち悪いから、他人からする人間の匂いを嫌悪してしまうのだという可能性もある。そういえば、何かを思いついたり感じたりしたとき「このことってあれに書いてあったんじゃ?」と思って本やwebサイトなどを確認してしまうのは、みんながやることなのだろうか。


外はとても暖かく、日用品と仕事用の服を買いに出た。かわいい服は高い。大富豪になりたい。かわいいけど高いし仕事になんて着ていきたくない服に後ろ髪を引かれながら、似合うのかよくわからないすうっとした青色のシャツを購入した。アガパンサスとか、オオイヌノフグリとか、アジサイなどに近い色である。帰宅中に雲行きが怪しくなってきて、マンションのエントランスに入る直前に後頭部に一滴何かが当たったなと思い、屋根の下で振り返ると、外は雨が降り出していた。自分のタイミングのよさに嬉しくなった。
明日からのお弁当のために、鶏胸肉を塩麹蒸しにしてみた。おいしいとよいのだが。夕食用に作った煮物は少ししょっぱくなってしまった。いつも、ごぼうを調理するのが下手。
 
触って、変わって。自分の輪郭からこぼれ出るような経験を、スピッツは希求しているように見える。自分の輪郭の外に連れ出してくれる、自分とは他なるものである君に触れること。君と溶け合うことに失敗したとき、そこには溶け合えなかったという挫折と、形の変わった自分の輪郭が残るのかもしれない。僕の中の何かが現実に変化することと、水になり翼が生えあるいは他の生物に変わるという想像と言語における変化とは別のことだが、いずれにせよそこには「らしくない自分」であるような、自分ではない何かに自分を変えたいという願望があるように思う。
いつも自信がない。こんな文章を書いている自分も、それを投稿したいと思う自分も、どうかしているんじゃないかと思う。恥ずかしくないのとか、思うけど。

日記(頭の中)

4/18
いつのまにか桜が散っていた。朝大急ぎで詰めたお弁当を家に忘れてしまった。頭の中がばさばさとしていて、残容量が5Gしかないパソコンのような動きをする。


早く休日にならないかと平日を出しっぱなしの水のように消費する生活をこのまま一生を送るのかと思ったら怖くなった。木曜日を、木曜日として大切にしてみたい。今を生きよう、今を頑張ろう、楽しんで生きようと思う気持ちと、私には何もできないのだと思う気持ちを両方同じくらい感じながら生きている。片方ずつしか出せなかった音を、重音で出せるようになったのかもしれない、と思う。
書きたいことがない、部屋がすごく汚い。笑顔でいてくれる人というのは大事な存在だ。忙しくても笑顔でいれる人間になりたい。自分とかけ離れた人間になりたいと思うことが少なくなった。てきぱき仕事ができる人とか、人とすぐ仲良くなれる人とか、ズバズバ思ったことを言える人とか、迷わずに物事を決められる人などに、なりたいと思うことが少なくなった。だけど、そういう人になれない私の行き着く先が「いけそうな人」であったということを思い出すと、とてもムカムカしてしまう。軽んじられたくないと思う気持ちを封じ込めないと軽んじられてきた事実を受け入れられないと思い、ムカムカする気持ちを隅の方にどけて抜け道を探したりする。抜け道がない。私が私であるが故に軽んじられるのであればなぜ私の方が変わってやらねばならないのかと思い、どうしようもない。
家に小人がきて、片付けとゴミ捨てと洗い物を済ませてくれる。朝起きたら部屋は綺麗になっていて、たまにコーヒーを淹れて置いてくれることもある。ありがたいことである。風呂の排水溝がいつの間にか詰まってしまうこともないし宅配便の包装用紙がいつまでも床に落ちていることもないし、布団はいつも清潔でふかふかとしていて、泣きたい気持ちになることも悲しいこともムカつくことも不安になることもなく、気分はいつもはれやかで頭はすっきりと冴えわたり、できないことができるようになることに喜びを感じ、世界は興味深いことで溢れている。


またペットボトルを増やしてしまった。500mlの水を飲み切ることができず、家に持ち帰ってきてしまう。突然、過去の私と未来の私にメールを届けてみたくなる。過去からのメールは届き、未来からのメールは届かない。
「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこの方が心地よいもの。」」「Ce que je sais, c’est que pour un certain nombre de maladies incurables, dont la maladie de Charcot, la souffrance peut être insupportable des années avant le décès du patient.」「鶴は人のように歩きながら、私と並んで橋を渡った。」
頭の中がうるさい。ずっと何かを喋り続けている。止まらなくなったChatGPTのように、私の思考の制御を外れて、謎の言葉が湧き出し続けている。

日記(書きたいことだけ)

4/15
・香港で見る英語と、日本で見る英語は私にとって別の現れ方をする。日本で見る英語に親しさはないが、香港で見る英語には親しさがある。
・英語もフランス語も大してできない私だが(謙遜とかではなくてガチでできない)、英語を話す人間よりもフランス語を話す人間の方が理解可能であると感じる。それは意味を取れるかどうかという問題ではなく、フランス語という言葉の身振りに私がより馴染んでいるからだ。私にとって生きている言語とそうでない言語。
スピッツを聴くとき、スピッツではないことが浮かんできてしまうようになった。それはときによいことであるけれども、そうでないときもある。
・ある思考の癖、表現の癖、モチーフの癖といったものについて考えるのが好きだ。だから私は癖の反復性が強いものを好み、スピッツはその最たるものの一つである。スピッツの癖について、一人で聴いていた頃から幾度となく考えてきた。その癖についての思考は、あえて大袈裟にいうのであれば、自分の中に持つ信仰のようなものであると感じるようになった。この「信仰」とは、スピッツについての信仰ではなく、スピッツについて私が考えたことについての信仰である。そして、そのように考えることは、おそらく自分以外のものを自己固有化し排他的になってしまうことに対する、一種の言い訳にすぎない。
・私がよいと思ったことについて、よいと言ってもらえることが好きだ。だけど、よいと思ったことが理解されること、あるいは理解されないこと、どちらも少しだけ痛い。
・「私の痛みに対するスピッツ」という問いが「スピッツに対する私の痛み」という問いにすり替わることを恐れている。私が考えていたいのは、私の生活におけるスピッツについてなのであって、スピッツ生活における私についてではない。
・「君」という存在、それは私にとって「いまだないもの」あるいは「もはやないもの」というかたちで現れる、僕の中の空虚の輪郭である。それはバラバラにちぎれて動作しなくなった世界をつなぎ合わせるための、意味の核なのだ。そうではない「君」について考えてみる必要がある。僕の強さと弱さのネガとしての君、今ここではない場所への逸脱を司る君、そして純粋に愛しい存在である君。スピッツを現実に引き下ろしたくないという気持ちが種々の妄想を生み出している。
スピッツとは、私にとって理解可能な言語である。でもいったい何が、その理解可能性を成立させているのだろう。中国語よりも英語が、英語よりもフランス語が、フランス語よりも日本語が理解可能であるように、スピッツが私にとって理解可能なものとして現れてくるのはなぜなのか。
・現れたり消えたりする理解可能性。スピッツが理解可能であると思えない日がある。あるいはもっと細分化して、スピッツのある曲が他の曲より優れて理解可能であると感じられる日と、その曲の意味が埋没してしまう日とは、必ずしも遠く離れているとは限らない。現れては消えて、そしてまた現れる意味のこと。

日記(西美企画展)

4/13
飲酒しているのでややおぼつかない。よい展覧会を観てきたので書いておきたいと思う。スピッツのライブ映像を観たいなという気持ちもあるのだが、ライブ映像を観ている間に今日の展覧会のことを忘れないうちに書かなきゃと思ってしまい集中できないのは嫌なので日記を書くことにする。
『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』、西洋美術館開館65周年の企画展。端的に言って感動した。久しぶりに美術に興奮した。この展覧会を企画できる美術館が上野にあるということが嬉しかった。たしかにこの企画展は西洋美術館にしかできないが、それを西洋美術館が開催したということが、上野の美術館は毎年似たようなゴッホとモネの繰り返しで入館料とグッズ代を稼ぐ商業装置であるという最近の私のやや拗ねた感想を変えてくれた。まあそのモネの絵を見て美術を勉強したいと思ったのが私なのであるが。いや、結構意欲的だったでしょう、この展覧会は。日本の中枢にあって「西洋」という近代日本の(矛盾を孕んだ)規範を体現したような美術館が、こんなに真っ正面からそのアイデンティティを自ら批評に晒すような企画を思いついて実行できるのか。それに、「西洋美術館」という装置から、こんなにも多様な問いが立てられうるということ、その視点のポリフォーカス性を提示することで、西洋美術館の在り方を問うだけではなく、芸術とは何か美術館とは何かということを問う場にもなりえている。エキサイティングな展覧会だった。あの西洋美術館でこんなふうにいろんな現代美術を見れるなんて。それもおそろしく納得できるキュレーションで。キュレーターがすごい。文脈を作る力がすごい。それぞれの作品にふされたキャプションも非常によかった。
この企画展は現代美術はよくわからないという層(そこには私も含まれる)にもその問題意識を理解させ面白がらせるだけの文脈を編む力があって、それが私的にはこの企画展で一番興奮を掻き立てられるところではあった。でもそれは、この作品たちが西洋美術館という強固な制度の枠組みの中で展示されていたからではないのだろうか。とすれば、やっぱり単なる現代性や私的領域を超えるような語りがなければ、美術の強度というものは担保されないように思う。制度と拮抗しうるのは制度でしかないというか、それこそ1番目のセクションにあったように、美術館の持つ記憶(=美術史という制度)を引き受けつつ反発するという矛盾の中からしか、ちゃんとした芸術というのは出てこないのじゃないか、当たり前のことかもしれないけど。そしてまた美術館それ自体も、美術館にとっての他者による問いかけがなければ、形を持ち続けることはできないだろう。他者からの問いこそが、その都度あらたに制度の輪郭を可視化するのである。
内藤礼(この展覧会の中で唯一「語らない」展示をしていた。セザンヌの隣にただ置かれた生成途上の絵画、それらのある空間の静けさ)、飯山由貴(こちらは逆に告発という語りの展示。文章が異様に読みやすかった。)竹村京(縫いとめること、そのまま包みこむこと、傷を時間として保存すること。損傷した睡蓮の「損傷」に形を与える)、ミヤギフトシ(物語を生き直しつつ変形させることによって元の物語の枠組みを批判する技法は企画展内にいくつも見られたが、映像と詩の完成度が高かったというか好みだった)、指弓寛治(ボランティアからカイロを受け取る上野の路上生活者たち、その目と鼻の先で煌々と輝く西美正面入り口の企画展の看板。)の作品が気に入った。特に竹村京の仕事はもう少し色々見てみたいなと思う。内藤礼はギャラリーショップに置いてあった本を読んで、文章もとてもよいということを知った。今度、買うかもしれない。今日はお金をやや使いすぎてしまったので何も買わずに帰った。
 
色々と思ってはみるけど、正直、本気で今日における芸術とは何かみたいな問いと取っ組み合おうというような意欲が私にはあまりないのかもしれない。それは、私にとっての芸術、あるいは創造物というのが、結局のところ治療だからなのではないかと思う。芸術が治療だといいたいのではなくて、私にとってマターになるような芸術とは、治療としての芸術であるということだ。私は医療が必要な問題を抱えているわけでは全くなく、それはきっとよいことなのだが、あなたの痛みは医療の対象になるようなものではないと言われ、それは抱えたまま生きることができて当然の痛みであると見捨てられたとき、その痛みは芸術にしか癒せないように思う。それは必ずしも「芸術」と呼ばれるものである必要はなく、スピッツであったり本や漫画であったりするわけだが、そうしたものによる癒しを得るときに必要なのは、客観的に価値のある理論や文脈ではなく、極めて私的なレベルで生起する私とそのものとの物語なのである。
とはいえ、その私的な物語の生成と癒しという出来事もまた芸術とは何かという大きな文脈に吸い込まれていく。どの階層で、いつ、どのように語るかというだけの問題なのだ。私的な物語は大きな物語を背景にしか生起しないのかもしれず、階層の間には循環があるのかもしれない。そして、それを誰と分かち合うのかという問題。分かち合えないこと、分かち合うべきこと、何かがパルタージュされるなら、私は誰からの分け前を受け取る資格を持っているだろう。

ひとりごと日記

4/11
疲れると、甘えた声を出してしまって恥ずかしい。こんな人間だったのだろうか。ここ最近の日記を振り返ってみると、「疲れた」という一言から始まるものばかりである。毎日疲れている、というよりはむしろ疲れているときには、それを言葉にして吐き出したいのだ。疲れていると言いたいし、優しくされたいし、褒められたいし、認められたいし、好かれたい。そう思うたびに、すぐさまそういう気持ちをボコボコに殴る言葉が無限に湧き上がって来て、自分に対して言いたいことを言えない自分が自分の中に取り残されてしまう。こんなにずっと頭の中でしゃべり続けているのに、どうしていつも「また何も言えなかった」と思いながら生きているんだろう。何もうまく言えないという気持ちが、言いたいことの上をすり抜けていく無駄な言葉を無限に吐き出させる。第一、本当は言いたいことなんてきっとなくて、ただ「何かを言いたい」という願いだけがあって、その「何か」に当たる部分を「言いたいこと」と名づけているだけなんだろう。頭部のない怪物のように、目的をもがれた願いだけがある。


疲れている。不安である。何かが足りないと思うとき、その何かとは何なのかと考えるのではなく、何かが足りない自分とは何なのかと考えてしまうところが、私に何かが不足し続けている原因ではないか、と考えている私はやはり何かが足りないままだ。自分の中のことしか考えられない。一瞬、興味を惹かれて自分の外のことを考えられるような気がしても、その「外」がすぐまた「中」に反転してしまう。目を瞑ったまま世界を見ようともがいている、目の開け方がわからない。不安なのは瞼の裏側の暗闇以外何も見えないからだ。

日記(もや)

4/8
月曜日なのに嘘みたいに疲れていた。最近ずっと疲れてるのでは。というか、人生の大半は疲れていて、生きるということが疲労感との戦いであるような気がする。それでも会社に行けばやりたくなくて仕方ない仕事などもなんとか片付けることができるので、場所に身を置くというのはとても大切なことだ。今日は評価面談があって、自分で思っていたよりも少しよい評価をもらえたのが嬉しかった。ま、新卒2年目で同じ仕事してる先輩誰もいなくなって人が補充されない中で2人の退職休職者の仕事まで巻き取りながら働いてたんだから多少は評価してもらわないと困るけど。面談で話していると、もっとできるかもという気持ちになり、いざ仕事に戻るともう全然できない向いてない辞めたいと思い、その間を反復横跳びしながらギリギリバランスをとっている。落ち込んでばかりだけど、少しでも自分のいる場所に納得して頑張ろうと思えることが増えていけばいいなと思う。
昨日の夜はメンタルがやばくて、美術館でハッピーな時間を過ごしたという日記を書いていたのにその楽しげな文章がシームレスにド鬱に急転落していってしまい、これはいけないと思い公開しなかったのだけど(そういう自己検閲の意識はある)、一晩経って読み返してみたらあまりにもみるみるうちに鬱に沈んでいくので面白かった。
いつからか、ずっとうっすらとした憂鬱の靄の中で生きている。ひとりでいるとその靄の密度が増してしまうことはわかっているのだけど、人と過ごしたあとひとり靄の中に戻るときの、その境界に存在する圧力と温度差の大きさをおそろしいと思う。スピッツは靄の中にいる。靄の中にいて、境目にかかる抵抗がないから、安心して触れることができるのだ。それはきっと、「スピッツ」が人間ではなくて音楽だからできることなんだろう。
人間に関して言えば、誰かが憂鬱の靄に分け入って来て欲しいと思ったこともあったし、そして実際にそうしようとしてくれた人もいたけれど、多分、私に必要なのは、靄の外から私を笑ってくれる人なのだと思う。私の人生には、私のことを笑ってくれる人がいてほしい。靄の外から、靄ごと面白いと笑ってもらうことでしか、靄の存在を相対化できない。