読書メモ(『中世の星の下で』阿部謹也、ちくま学芸文庫)
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昨年の秋頃たまたま手に取った『ハーメルンの笛吹き男』があまりに面白く、以来阿部先生の著作を集め始めた、その三冊目である。本当に文章がうまい。血の通った知識と視点でもって語られる世界にいつも夢中になってしまう。特定のテーマを定めない論文集でありつつ、読んでいくと当然随所に頻出するモチーフというものがあり、それがかえって仕事の広がりと同時に、通底する思想の枠組みを理解させてくれるようで、今後の読書のよい指針になる一冊だった。一方で、先生の仕事は中世民衆の生活のミクロに分け入ってその社会の様相を立ち上がらせるものであるが(もちろんそれが魅力である)、何しろ門外漢の私はマクロの方を知らないため、中世ヨーロッパを別の角度から見てみたいという欲求に駆られている。それで今は中世の修道会に関する本を読んでいるけれども、全く触れてこなかった中世哲学にも興味が出てきたので、私の中の中世ブームはもう少し続きそうだ。なお、次に読む阿部先生の著作としては既に『刑吏の社会史』が控えており、こちらも大変楽しみである。なんだか最近文体が迷子になっている。とりあえず、以下にとりわけ興味深く感じた箇所をまとめておくことにする(今年は面白い本を読みっぱなしにしないことが目標なので)。
・神聖なものとして古来崇拝の対象であった川と関わるものとして、また川の此岸と彼岸、ひいてはこの世と異界を繋ぐものとして、橋はそれ自体が神聖なものとみなされ、喜捨の対象となった。橋は広範囲の商取引を容易にしただけでなく、渡し舟(これも神聖な場としてアジールとされていたが)の高い使用料を払わずに両岸を行き来できるようになったため、渡し賃を払えないような貧民に対する救済という側面も持っていた。人々が橋に喜捨したのは、貧民救済が贖罪の方法として重要視されていたからでもある。(「ライン川に架かる橋」)
・16世紀以前には喜捨として貧民や民衆に入浴をさせる文化があり、それは個々人の単発的な喜捨を超えて公衆浴場という制度となっていた。その背景にはキリスト教以前から存在する贈与関係、すなわち富める者は貧民に富を贈与することによって、はじめて権威を持つことができるという考えの根差した社会があった。キリスト教の「喜捨」は、この贈与関係の回路に「死後の魂の救済」という名目を差しはさんだにすぎない。ゆえに16世紀以降、こうした贈与関係が解体され、聖と俗が切り離されていくにつれ、公衆浴場は姿を消していったのであった。(「風呂」)
・ギルド・ツンフトの社会であった中世社会は、その仲間意識と仲間間の相互扶助、共同体内の利益と秩序の確保によって成り立っていたが、その共同体の絆は、厳しい刑罰と同時に、「外部」をネガティブな媒介とすることによって強化されていた。その「外部」として生み出されたのが賎民である。十四、五世紀に農村から都市に大量の農民が流入するようになると、彼ら全員に職を与えることは出来ず、既得の地位がある都市民にとっては自身の地位を脅かす競争相手となったため、こうした農民たちは賎民として扱われた。彼らと同時に流入してきた野良犬たちは農民と同一視され、ゆえにこの時期以来、犬は殊更に「穢れ」として扱われるようになったのだった。このように、社会内部の線引きによる賎視と共同体の強化を象徴するもののひとつが犬であったとすれば、狼は社会自体の外部を象徴する動物だった。犬のようには人間社会に組み込まれていない狼は、賎視の対象にはならなかったが、「人間狼」として、社会から追放された人間の表象を担ったのである。(「現代に生きる中世市民意識」「中世賎民身分の成立について」「人間狼の伝説」)
・富の再分配の仲介者としてのキリスト教。農業や商業が発達し、贈与から貨幣経済への移行により富の蓄積が容易になる中で、「贈与と再分配」という古来の心性を未だ残していた当時の人々の心には葛藤と罪悪感が生まれたにちがいない。教会への喜捨は、その苦悩を癒す役割を果たしていた。喜捨・寄進によって建設された壮大なカテドラルは、単なるキリスト教への信仰の結果であることを超えて、キリスト教によって制度化された古代の心性の産物でもある。
「人と人との関係のあり方を古来長期にわたって規定してきた贈与慣行が売買による関係に転化してゆく際の人びとの心の葛藤の隙間に極めて巧みに仲介者として登場した教会がカテドラル建設の費用を調達しえたのはこうした背景があったからなのである。十二、三世紀になると都市内部にもさまざまな形で商人や手工業者から寄進がよせられる。これらの建設や像が今日のヨーロッパの都市の景観をつくりあげている。十六世紀初頭にマルティン・ルターが、贖宥符(免罪符)批判を行い、現世における善行つまり貧民や教会への喜捨・寄進などの行為は天国における救いを約束するものではない、とはっきり断言し、カトリック教会の財源に打撃を与えたとき、ヨーロッパにおける古代的な贈与慣行は少なくともプロテスタント地域では原理的には払拭された。ルターの贖宥符批判によって中世のなかに浸透していた古代が終末を迎えたのである。(…)これらの大きな変化がまさにヨーロッパの中・後期において生まれていたのであり、そのときの緊張を今に伝えるものとしてカテドラルが聳えているのである。」(p.284-285より)(「カテドラルの世界」)
・十八、十九世紀にヨーロッパで誕生した各種の協会は、宗教改革やフランス革命によって旧来の社会的絆が解体されたのち、市民らが個人の趣味によって新たな絆を結ぶために自発的に作り出したものである。その内容は音楽、読書、歴史など多岐にわたり、身分や階級の垣根を超えて集った同志が趣味を通して人間性を陶冶し、さらには世界の変革を目指すという志の高い組織であった。このような協会のユートピア的性格は長くは続かず、やがて専門家と素人の住み分けや公的権力との軋轢が生じ、中近世とは別種の階級システムに取り込まれていくことになるが、今日でもドイツの地域史研究において重要な役割を担っているのは、この頃に生まれた各地の歴史協会なのである。(「知的探求の喜びとわが国の学問」「自由な集いの時代」「西ドイツの地域史研究と文書館」)
日記(しょぼしょぼ)
12/15
ひさしぶりにWordを開いた。あまりにも開いていなかったのでアプリが勝手にアンインストールされていた。この1ヶ月半日記を書いていなかったのは転職活動をしていたからで、あまりにも毎日コロコロと感情が変わるので自分でもついていけず、言語化する気が起きなかったからである。当初見ていた業界は未経験だと条件が劣悪で、まったく別の業界を見ることになったり、これまでの人生の一貫性を捨てて突然なんの関係もない業界に転職することに疑問を感じたり、でも今の業界にも違和感を感じている自分がいるのはたしかで、一体自分は何をしたいのか、何を仕事に求めているのか、自分とは一体どんな人間なのか…と考え出したらドツボにハマり、あっちへふらふらこっちへふらふら、そのうち疲れて転職活動を一旦休止することにしたのが、昨日。今となっては転職したかった当初の気持ちも悩んでいたときの気持ちもイマイチ思い出せず、疲労感だけが残っている。私のようなギリギリ面接官を騙して入社できただけの社会不適合者が一体どうして社会で成功など目指せるわけがあろうか、何を夢見ているんだ。みんな、自分の仕事が好きですか。
その間にも、スピッツ展に行って息抜きをしたり、クリスマスマーケットでホットワインとプレッツェルを食べたり、おや!今年はまだシュトーレンを買っていない…そう、し転職した大好きな先輩と久々に会ったり、TOEICの点数があった方が何かといいなと思い勉強をし始めたりなど、まあ色々なことをした。
スピッツのアルバムを語るスペースをしたりもした。昨日はオーロラになれなかった人のためにを読んだ。聞き返したら、なかなかのオタク早口でうわ…と思ったし、ナイフの解釈はあんなことを言ってしまってよかったのか、よくわからなくなってきた。私は私の解釈を通して聴いているスピッツのことが好きだから、自分の解釈を信じているけど、それはそれとして、そういう解釈をする自分に対する不信感というのは実のところ拭えない、気がする。
最近スマホを見過ぎている。転職活動ちゃんとしていた時に企業からの連絡を気にしたり求人に張り付いたりしていたので、その癖がついてしまった。この休日は、一応街に出かけたりもしたのだけど、なんだかよくわからない気持ちのまま終わってしまった。何かを楽しいと思ったり、何かを欲しいと思ったり、そういう素直な欲求が上手に意識の水面まで浮かんでこない時期。歩いていたら突然強烈な疲労感に襲われて、アイシャドウのタッチアップをするつもりだったのを諦めた。よく空腹時に、突然崩れ落ちそうな疲労感に襲われるのはなんなのだろう。アイシャドウを見るどころではなくなったので、同時に食べたくなったスープカレーを食べに行った。スープカレー、好きだ。北海道社員旅行で食べて以来、好きな食べ物の一つになっている。焼いた野菜がゴロゴロ入っていて、ちょっぴり甘くてスープに旨みがあって、とても美味しい。カウンター席の右隣に男女がいて、恋人同士かと思いきやそういうわけでもないようだった。男の子は、アズカバンの囚人がとてもおもしろかったのでハリーポッターを真剣に観るようになったらしい。ハリーポッターの話だったのでつい聞いてしまった。老夫婦と日本語を話す外国人の男性が三人で並んでいたのは、ホームステイかしら。ホームステイ、楽しかったな。私は大人から可愛がられるのが好き。
何か、何かが足りていないよ今。今年はダウンコートが欲しいな。あたたかくしよう。
日記(なんじゃこりゃ)
10/28
三連休(月曜は代休)
土曜日…レジュメ作り終わったら疲れてしまい、その後はほとんど布団で同時に進めている塩川徹也の半分論文半分エッセイみたいな本をうとうとしながら読んでいた。六時くらいからテレビを観始めた。コナンをチラ見してからおらが春が始まるまでの間に何かを観ていたのだが、全く記憶がない。何を観ていたのだろうか。おらが春、西田敏行の演技は言うまでもないけど、花橋さんの色気が尋常ではなかった。途中から一茶がものすごく嫌な田舎の好色ジジイになってしまい、もやもやしつつも石田ゆり子が美しすぎたので観続けた(死んじゃったけど)。めちゃくちゃひどい奴だったな、一茶。最後の死に方の演技すごかったな…。この二週間くらい心が下り坂を転げ落ちていく感じで、下り坂の底でぼんやり伏していたら一日が終わってしまった感じだった。
日曜日…選挙のあと、中野のプラネタリウムに行ってみた。解説のおじさんがとってもいい感じで、古いプラネタリウムだったけど、とてもすてきだった。真っ暗になって星が映った瞬間、本当に空を見ているみたいで感動した。月ごとに特集が変わるようで、今月は土星の話を聞いた。水のある衛星があることを知らなくて、こんな近くの星にも生命の気配がするのなら、宇宙のどこかにはきっと命があるんだろうなあ。見えないけどあるかもしれないものの気配に心を向けてみるのが好きだ。帰り道、大学時代に好きだったラーメン屋さんに入ってみた。おいしかったけど、そんなに感激するほどかな、と思った。留学前、当時付き合っていた人に、東京で最後に食べたいものある?と聞かれて、一緒に来たことを思い出した。今の私なら、最後に何を食べるだろう。住んでいる場所のせいか、お気に入りのお店というものがなくなってしまったような気がする。家に帰ってからは、本を読んだり選挙速報を見ながらフォロワーさんとぶつくさ言ってみたりした。塩川さんを読み終ったので、一休み(?)で阿部謹也の『中世を旅する人びと』を読み始めた。めちゃくちゃ面白い。どんな研究したらこんなものが書けるんだろう。中世ヨーロッパに住んでいたとしか思えない。こんな風に、自分の世界の生活史を書いてみたら面白そうだなあ。
月曜日…代休だったので、皮膚科に行ってお薬をもらってきた。帰りにデリを買ったら、電車の中で液漏れして、二万円くらいするデニムに染みた。なんてこった。家に帰って手洗いしたらきれいになった。よかった。本当にすぐに疲れてしまうので、その後は切手と夕飯の買い出しをして、うとうとしたり本を読んだりするばかりだった。ずっとうとうとしながら本を読んでいるな、私は。郵便局で、おじさんが「切手が欲しいんですが、どうやって買うんですか」と言っていた。おじさんも、最後に切手を貼って手紙を出したのは子供の頃だったのかもしれない。親が買ってくれるような歳の頃にしか、使ったことがなかったのかもしれない。郵便ポストに物を投函したこともなさそうな世代が大学生になって、不在投票をしなきゃならないとなったら、お手上げだろうな。住民票と住んでいる場所が違う状況での選挙ってめんどくさいから。夕方になって、段々頭が痛くなってきて、今はそれに加えて吐き気もしてきた。こう書いてみるとやばいな、やばいやつではないです。生きてるだけで体調悪い。たまに来る気分の沈む時期なんだろうな。バカみたいなことしか書けない。ああ。気持ちわる。寝よ。
読書メモ(『贈与の系譜学』)
10/20
『贈与の系譜学』湯浅博雄 読書メモ
このメモに関連する議論のレジュメもつけようと思ったけど、力尽きた。また追記したいとは思うけども。
贈与は、純粋に贈与であることができるだろうか。見返りを想定しないかたちで何かを与えること、それも決して譲り得ない、自己にとって固有で、かけがえのないものを無償で譲り渡すということは、果たして可能なのだろうか。というのも、何かを贈るということは、すぐさまその返礼を期待する「交換の円環」を開いてしまうのである。著者はまず、この「与えられた何かは等価な別のものによって贖われるはずである」という思考が古代における神への捧げもの(犠牲)という習慣の中でも既に働いていること、そしてその思考はあまりに根源的であるが故に、経済はもとより(貨幣はすべてのものが共通の尺度のもとで等価交換の対象となりうるという前提がなければ発明されなかっただろう)、道徳の次元にすら及んでいることを明らかにする。不正は善の過多であり、損失は善の過少である、よって過多の側は過少の側にその善を返し、社会の均等性を回復するべきであるというわけだ。付言しておくなら、この等価交換の終わりなき循環は、資本主義社会の基礎を成すものでもある。(第1章)
この均等性の正義とは異なる正義を提唱したのが初期キリスト教である。それは言ってしまえば「見返りを求めない愛」のことで、それを返すことなど考えも及ばないほどの過剰な贈与こそが救済の次元を開くという思想である。返礼への期待を予め含んだ贈与は、あるいは均等性の維持という社会的義務に基づく道徳的行いは、果たして真の意味で正義であると言えるだろうか。誰にも気づかれず、したがって報いを受けることの決してない正義を行うのでなければ、人はその内面において正義を為したとは言えないのではないか。少なくとも本書で扱われている範囲に限って言えば、初期キリスト教における「正義」とは、均等性の正義を統べる交換の円環を断ち切ることにあった。自らの富を無償で貧しい人々に差し出してこそ、人は地上の生においてではなく、天の神によって報われるのである。そもそも、キリスト教の信仰の根幹、すなわち神が贖えない罪を背負う人間を「無償で」赦すということは、留保なき贈与、神が自身の息子イエスという掛け替えのないものを犠牲に捧げることによってなされた純粋な贈与であろう。しかし、「天の神に報われる」という言葉が既に示す通り、この絶大な贈与は、ある瞬間においては純粋な贈与かのようであったとしても、結局のところより大きな交換の円環に回収されてしまう。(第2章)
近代以降、文化人類学およびそれを参照する現代思想は、彼らが「原始社会」と呼ぶ社会の研究を端緒として「贈与」の問題について考察してきた。原始社会において、労働の産物である家畜や穀物、すなわち富の扱いには、二つの様態があった。ひとつは人々が生存を維持し、再び労働することができるようにそれを消費すること。もうひとつは、それを精霊や神々に捧げものとして贈与することである。前者において富の消費が未来の目的に服しているのに対し(富の消費は未来の目的のために役に立つ有用なことである)、後者においては富を費やすことそれ自体が目的である。それは、未来に繋がることなく行為のうちで富が非生産的に消え去ること、「消尽」なのである。
この原初の社会における捧げもの=供犠とは、農耕・牧畜というシステムによって「有用な物」と化した(すなわち事物化された)自然の事物性を徹底的に破壊し、その聖性を回復させることであった。他の何ものにも益さない仕方で生産物を消尽することで、供犠は交換の円環=エコノミーを断ち切るのである。そしてこの点において、「供犠」と「死」は限りなく接近する。未来の目的へと回収され得ない仕方で何かを差し出すこと、まさにその場その瞬間において全てを擲つこと。この消尽は純粋な贈与である。ゆえに純粋な贈与とは、もしそのようなものがあるとするならば、エコノミー的な時間の裂け目においてしか考えられないものである。しかし、神々への生贄=供犠がやがては豊作を祈る習わしという意味を帯びていくように、純粋な贈与(に見えたもの)は、贈与への贖いの期待、全体性の回復を志向し続ける交換の円環へとすぐさま回収されてしまう。贈与が純粋に贈与であることは、ほとんど不可能であるかに見える。たとえば、『贈与論』においてモースが論じるところによると、多くの原始社会において、他なるものとの交流は「贈与」というかたちを取って開始される。しかし、これは本当に贈与であると言えるのだろうか。たとえは「クラ」と呼ばれる交易においては、まず部族Aが部族Bにあるものを贈与する。すると、部族Bはそのものを消費することによって新たなものを生産し、それを部族Cへと贈る。部族Cは同じ仕方でまた別の部族Dへと贈る、このような過程を経て、最終的には部族Dが部族Aに贈与をすることによって、部族Aは自身が贈与したものを回収するのである。それでは、この交易は交換的だと言うべきなのだろうか?この循環は、その起源においては交換を目指すものではなく、或る種の自己犠牲的なふるまいであっただろう。このようにして、贈与の贈与性は、宙吊りとなり決定不可能なままに留まってしまう。(第3章)
人間の「理性」が「事物化」、すなわち自然を否定し対象化する能力であり、自然を生産物へと変えつつ交換の時間を持続させるものであってみれば(ヘーゲル)、そのような人間の意識は、供犠の瞬間をそれとして完全に捉えることはできない。供儀とはまさに、理性的人間の意識の破れにおいて生じる出来事だからである。供儀(あるいは死)の経験は、意識にとって真に現前するものとなり得ない以上、模擬=虚構的に生きられるしかない。その常に捉え損なわれる過剰な部分、自己が自己同一性の外部で生きる経験は、根源的に忘却されているが、自己にとって「生き尽くすことのできない経験」であるがゆえに、繰り返し回帰する(ランボー、プルースト)。このように回帰する瞬間は、自己同一的なものではあり得ないだろう。つまり、それは意識にとって判明な何かが同一のものとして再来するということではないし、さらに言えば、はじめにオリジナルの経験があり、その模倣が回帰するということでもない。贈与的なものの経験は、はじめからすでに模擬的なものでしかあり得ないのだから、オリジナルなきシミュラークルがその都度ズレながら(すなわちメタモルフォーズしながら)、決して汲み尽くされない瞬間として回帰するのである。贈与は「真か偽か」「オリジナルか模倣か」という二項対立の外部にあって、別種の「リアリティ」として経験される。
以上のようなことを踏まえたとき、初期キリスト教が提示したような「救済」、交換の円環に回収されない救済とは何であったのか。苦難からの救済には、未来における贖いの「期待」ではなく、その瞬間自体がその場において贖われるべきであるという「希望」が含まれている。それは、いわば苦難の瞬間自体が「生まれ変わる」ことへの希望である(レヴィナス)。未来の別の瞬間おける返済ではなく、あくまでもその瞬間にのみ関心を持つ「希望」は、「かけがえのないもの」に関わるだろう。それは文字通り「替え」のないもの、あまりにも固有であるが故に償いようのないものを償うという、不可能な希望なのである。このような不可能な救済の可能性は、交換の円環=エコノミー的時間の外部にある時間、エコノミー的時間の裂け目から露呈するような本来的な時間の次元においてしかあり得ない。ゆえに、「苦悩と涙の瞬間そのものが〈生き変わる〉ことへの希望とは、クロノス的な時間秩序が破られ、時間の本来的次元が開かれることへの希望である。」(186)そしてまた、「もう少し広く言えば、こうした希望は、〈存在すること〉が再開始に委ねられるのを望んでいる、と言ってもよいだろう。存在がなにか最終的なもの=決定的なもの、終了し、完了したものに繋ぎとめられることのないように、そして、非最終的なもの=非決定的なものが、いわば瞬間ごとに、再開始するように希望している。」(187)本質的に非決定的であるということは、たえず贈与を問いに付すだろう。それは真に贈与であるのか、それともいつかは交換へと変貌するものなのか、と。しかし、そのようにして贈与はまた回帰する。それは決定不可能であるがゆえに再来する瞬間であり、贈与が純粋な贈与として決定され得ないということこそが、逆説的にも贈与に力を与えるのである。(第4章)
日記(豊サン、魔改造、隠居)
9/29
9月最後の三連休。世間的にはただの週末だが、私は豊洲サンセットのために金曜を有休にしたのだった。スピッツ以外の邦楽に未だ強い抵抗感がある私にとって、去年まで夏イベはいわゆる「Not for me」だったのだが、今年はスピッツに会えるチャンスが夏イベしかない。去年の夏イベはとても楽しそうだったし、年々邦楽への苦手意識も薄れてきているので、勇気を出して今年は豊洲に挑戦してみることにしたのである。本当にわからないことだらけのフェスだったけれど、まずグッズ販売を舐めていた。本当に買う気ならせめて14時には行っているべきだった。いや、そもそもそんなに前のめりにグッズを求めていなかったのが敗因な気がする。どうしよう、買えたら買うか、くらいの気持ちでいたのがいけなかった。買う予定だったのはタオル一枚だったのだから、四の五の言わずにイベントを一日楽しむつもりで早くから並んでいればよかったのだ…。せっかくの平日休み、休日診療代を取られないチャンスだと病院に行ったりしたのがよくなかったし、せっかくここまで来たなら…とか言ってニトリに寄ったりラーメンを食べたりしなければよかった。これだから地元参戦はだめ。遠征ならこんなことにはならない。来年は頑張ろう。待機列では大阪から来たという方とお話しして楽しかった。スタンディングはBくらいまでじゃないと最前ゾーンには行けなさそうで、思ったより下剋上はなかったので、来年整理番号がよかったら、入場後一目散に場所取りに向かおうと思う(そもそも今回はCだったくせに入場してからグッズ売り場でうじうじ悩んでいたのがよくなかった)。反省が多いな。
他の出演者の演奏を楽しめるか不安に思っていたけれど、「ライブ」というものの力を知らなかったが故の不安だったことが、始まってすぐにわかった。アーティストが目の前にいて、生で演奏をしてくれるということが、CD体験とこんなにも違うとは思わなかった。スピッツのライブは大好きだけど、それはスピッツだからだと思っていた。一回きりしかないというかけがえのなさ、自分側に選択権のない曲順のサプライズ感、場の空気そのものがアーティストに支配される感覚。SUPER BEAVERの渋谷さんがステージから「ライブなんだから音楽に参加してくれ!」というようなことを叫んでいて、それはつまり日常での音楽体験は受動的でもライブの音楽体験は能動的であるべき、ということとも取れるけど(そして言っていることはとてもわかるけど)、私はむしろ逆なんじゃないかなあ、と思った。ライブというのは、他者の音楽に支配されるという極度に受動的な体験なんじゃないだろうか(もっとも、SUPER BERAVERのステージもまた、音楽に参加「させられる」という受動的な体験ではあった)。コレクターズの青と黄色のピエロ、よかったなあ。スピッツカバー2曲もよかった(まさか恋のうたを最初にカバーで聴くことになるとは思わなかった恋のうたの亡霊)。
スピッツのステージ、それまでのボーカルさんがみんな大きな声だったからか、マサムネさんの声がやや小さく聞こえた。セトリはどれも私にとってのクソデカ感情系の曲ではなかったので、ひみすたツアーの時よりもはるかに安定した情緒で単純に楽しむことができた。前日だったら危なかったな、『歩き出せ、クローバー』やったらしいからね。『怪獣の花唄』すごくよかった。マサムネさん、スピッツの歌以外のとき歌い方ちょっと変わるから、歌手ってすごいな…この人歌手だったな…と訳の分からないことを思った。草野マサムネ、もちろん歌声が大好きなのだけど、歌手であることをたまに忘れる。スピッツ曲セトリの中では、もちろんローテク・ロマンティカやルナルナ、たまごもしびれたけど、群青という曲のよさを改めて実感した。この歌詞の最後に「青く染まっていくよ」を持ってくるセンス、どういうことなんだろう。なんとなく、スピッツの曲の中で「青」という色は夜明けの色なのかなという気もするけど、そんなこと考えなくてもいいくらい、詩として美しい。
ああ、スピッツの歌詞の好きなところ、歌詞カードを広げて話し合いたいな。スピッツ、好きだなあ。一曲一曲が宝もののビー玉みたいに輝いていて、光にかざしてガラスの中を眺めていると色んな輝きや模様が見えてきて、どれだけ聴いても飽きるということがない。こんなものがこの世界に存在していて、それに出会えたということが何度考えても不思議で仕方ない。こんなもの、この世に存在するんだ。
土曜日、秋服をウォッチしに行ったのに、なぜか指環を買って帰ってきた。ポップアップの天然石を使ったアンティーク調ジュエリーショップで、軟玉翡翠の指環を買った。アンティークっぽい石の付いた指環がほしいと思っていたのだ。少し遅いけど、今年の自分への誕生日プレゼントということにした。夜は初対面のフランス人とビデオ通話をした。改めて実感するけど、私全然フランス語で人と交流したいとか思ってないわ。私が興味あるのはフランス語であってフランス語をしゃべる人間ではなかった。ごくごく稀にとても気の合う人との素敵な出会いもあるけど、そもそもが外国語学んで外国にお友達を作りたい!と思っているタイプの人と仲良くなれる気がしない。母国語の友達すら少ないというのに。だけど言語は使う人間と一体のものなので、フランス語をやるならフランス語を使う人間のことを理解しないといけない。興味ないのに…。実際に会う人間より本の語り手に親近感を感じるタイプの人間だから、もう本を読んでればいいか…。
金曜と土曜、魔改造の夜を二夜連続で視聴した。この番組、あまりにも好き。まだ全部観たわけではないので、今後も再放送の機会を逃さないようにしたい。なんだか、ことテレビにおいては、NHK独特のユーモアでしか笑えない自分がいる気がする。民放の番組を観て笑った記憶がほとんどない。私が観たことのあるお笑い番組といえばサラリーマンNEOとLIFEくらいしかない。三つ子の魂百までということか…。
最近あたたかいお茶を飲むことにハマっている。中国茶とハーブティーがおいしい。明日からまた仕事だ。たまに、死ぬまで何かをやり続けないといけないのだという事実に気が遠くなる。休みではなくて、「もう何もしなくていい」が欲しい。引退とか、隠居とかがしたい。
日記(秋、ドキュメンタリー、プラネタリウム)
9/22
突然秋めく。秋めいたのに、部屋の中は蒸し暑い。蒸し暑い部屋の中で、いらない靴や箱を捨てたり、友人に手紙を書いたり、DiorのSauvageの広告のクソコラを作ったりした。テレビをつけると、フランスと日本の認知症ケアに関するドキュメンタリーをやっており、手紙を書いたりお昼ご飯を食べたりしながら観ることにする。ざっくり言うと、認知症になる以前の暮らしのスタイルをゆるやかに維持することで、認知機能の悪化や生活からの断絶を防ごうという試みを追うというもの。出てくる患者さんたちそれぞれの積み重ねた人生や、それに裏打ちされた人柄、営んできた生活などが丁寧に描かれていて、よいドキュメンタリーだった。その中の1人のおばあちゃんが書いた文章に「自分の中で何かが死んだことを知りながら、残されたものを前進させていこうとしている」というようなものがあって、ああ、と思った。
忘れるということの不思議。忘れることがとてもこわいと思うときがある。
昨日は、知り合いの人のグループ展とプラネタリウムに行った。知り合いの人は絵を描く人で、お菓子が好きだからか、よくケーキやプリンなどが作品に登場する。その人と知り合う前の私であれば、そんな単純な…と言っていたかもしれないけれど、その人はたしかにお菓子がとても好きなのだ。よい展覧会だった。よくグループ展をしている人で、その人の作品が展示される空間は、いつも柔らかくて静かでしっとりとする。
今日はプラネタリウムに行くんだ!とわくわくしていたのに、サイトを見てみたら、貸切になっていて一般上映再開まで5時間待たなければならないと書かれていた。家を出る前に気付きなさい。広すぎる駅を歩きまわり、座るスペースや昼食をとる場所を探すのは大変で、へとへとになってしまい、図書館があるというので逃げ込んだ。現代思想の「友情の現在」がずっと気になっていたので、図書館に並べてあったそれを読みながら時間をすごした。男女の仲や特別な関係性をすべて恋愛に還元する風潮には意識的であれど、「友情」という関係ですべてをまとめるのは乱暴だという視点はなかった。たしかに、よい関係を築いている何人かのことを「ともだち」と呼ぶことに、そこはかとない違和感をおぼえてはいる。続きが気になる。買おうかな。
プラネタリウムは、もっと星空の解説をしてほしかったので、今度は40分丸々星空解説の回に行こうと思う。実はあと1時間待てば星空解説回だったのだが、さすがに疲れすぎてもう待てなかったのだ。カップルたちがたくさんいて、たしかに、誰かとプラネタリウムを観に行くとしたら、ちょっと照れくさくて、カップルくらいじゃないと来られないのかもしれない、いや、数年前に仲良しの先輩を連れて行ったな。都内には他にもいくつか星空解説がしっかりしているプラネタリウムがあるようだから、少しずつ巡っていこうかな。
あと、中秋の名月の日、もらった月餅がおいしかった。中国のお菓子、わかるようでわからないのにわかる!みたいな味のものが多い。
先週転職エージェントと面談をした。「あーなるほどっす!」しか言わないエージェントで、何がなるほどなんだろうか、まあ、カウンセラーじゃないんだからこんなもんかな。海外営業をやめたいとはっきり言えずに終わった。本当にやめたいのかわからないし。給料あげたい、営業辞めたい、フランス語は使いたい。私の能力ではむちゃか。
とりとめのない日記
9/12
ここのところブログに載せるほどでもない日記あるいはブログに載せるには個人的すぎる日記などを書いていたが、こういうとあたかもブログに載せているのはブログに載せるに値する日記であると言っているかのようである。それはさておき、人に聞いてほしいと思うから書いていることはたしかで、ただ聞いてほしいのか本当に?という気持ちが、ここのところWordやTwitterを開くたびに顔をのぞかせる。いやそれって今更?やっとおとなになったということか?
可もなく不可もない一週間。ギスギスしていた後輩くんと和解した。後輩を持つって難しい。まだ全然何もできないポンコツ社員なのに、後輩に何を教えられるというのか。自分の気の利かなさにがっかりするし、自信は失うし不安になるし、去年先輩がいなくなって業務を全部一人でやることになったときよりよほどメンタルにきている。後輩のせいではなく。ここ数ヶ月ぼんやりと転職したいなと思っているが、それがなぜなのかも、正しい感覚なのかもよくわからない。営業に向いていないのはわかっているけど、私は恐ろしく不注意で鈍間なので、事務職のような細かな仕事をテキパキ回していく職もできないと思う。私に向いている仕事なんてあるわけないけど、せめて解雇されないクオリティで仕事をしないと。悲しくなってきちゃった。何ができるんだろう、私。
暗。普通に買ったら一万近くするフランス語の教材をメルカリで4500円で売ってもらった。ラッキーすぎる。教材って必要だなと思った。最近読んだり聞いたりするばかりで教材にあたるということがなかったから。
秋が来ると思ったのに、来ない。34度の気温の中を「だけど風は涼しいよね」と言い聞かせながら歩く。
先日、本屋を1時間ほど彷徨い、全く予定になかったハーメルンの笛吹き男の本(Twitterでおすすめされていた)とパンセを買った。昔自省録を読んで「うわーーこーいうのもっと読みたい!!」と思って以来、「こーいうの」であると思われる本を少しずつ読んでいくのが自分の中のプロジェクトになっており、パンセはその一環である。この秋はとりあえずこれを読むことにする。パスカルは息をするようにモンテーニュを引用しながら持論を展開しまくっており、不謹慎(?)にもその身振りは私がスピッツを念頭に置いて発言するときのそれと似てるなと思ってしまった。似てないわ。とはいえ、人は必ず何かを無意識に念頭に置いて発言しているのであって、その何かを知るのは楽しいことであると思う。それに、セネカを引くモンテーニュや、モンテーニュを引くパスカルを読むと、一つの本を誰かと一緒に読んでいるようで楽しい。
モンテーニュって、めっちゃ仕事できただろうな。仕事できるやつの雰囲気漂ってる。
ハーメルンの方は、びっくりするくらいおもしろかったので、はやくも阿部謹也の他の中世ヨーロッパ史の本を読みたくてうずうずしている。
同じ場所にずっと居続けることが性に合わないのに、移動するためにかかるコストが年々増大してゆく。金銭的にも体力的にも社会的にも精神的にも、である。せめて、読む本のジャンルやコンテンツやTwitterのアカウントの間を移動することで、ひと所にとどまりたくないという気持ちを宥めている。