ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(西美企画展)

4/13
飲酒しているのでややおぼつかない。よい展覧会を観てきたので書いておきたいと思う。スピッツのライブ映像を観たいなという気持ちもあるのだが、ライブ映像を観ている間に今日の展覧会のことを忘れないうちに書かなきゃと思ってしまい集中できないのは嫌なので日記を書くことにする。
『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』、西洋美術館開館65周年の企画展。端的に言って感動した。久しぶりに美術に興奮した。この展覧会を企画できる美術館が上野にあるということが嬉しかった。たしかにこの企画展は西洋美術館にしかできないが、それを西洋美術館が開催したということが、上野の美術館は毎年似たようなゴッホとモネの繰り返しで入館料とグッズ代を稼ぐ商業装置であるという最近の私のやや拗ねた感想を変えてくれた。まあそのモネの絵を見て美術を勉強したいと思ったのが私なのであるが。いや、結構意欲的だったでしょう、この展覧会は。日本の中枢にあって「西洋」という近代日本の(矛盾を孕んだ)規範を体現したような美術館が、こんなに真っ正面からそのアイデンティティを自ら批評に晒すような企画を思いついて実行できるのか。それに、「西洋美術館」という装置から、こんなにも多様な問いが立てられうるということ、その視点のポリフォーカス性を提示することで、西洋美術館の在り方を問うだけではなく、芸術とは何か美術館とは何かということを問う場にもなりえている。エキサイティングな展覧会だった。あの西洋美術館でこんなふうにいろんな現代美術を見れるなんて。それもおそろしく納得できるキュレーションで。キュレーターがすごい。文脈を作る力がすごい。それぞれの作品にふされたキャプションも非常によかった。
この企画展は現代美術はよくわからないという層(そこには私も含まれる)にもその問題意識を理解させ面白がらせるだけの文脈を編む力があって、それが私的にはこの企画展で一番興奮を掻き立てられるところではあった。でもそれは、この作品たちが西洋美術館という強固な制度の枠組みの中で展示されていたからではないのだろうか。とすれば、やっぱり単なる現代性や私的領域を超えるような語りがなければ、美術の強度というものは担保されないように思う。制度と拮抗しうるのは制度でしかないというか、それこそ1番目のセクションにあったように、美術館の持つ記憶(=美術史という制度)を引き受けつつ反発するという矛盾の中からしか、ちゃんとした芸術というのは出てこないのじゃないか、当たり前のことかもしれないけど。そしてまた美術館それ自体も、美術館にとっての他者による問いかけがなければ、形を持ち続けることはできないだろう。他者からの問いこそが、その都度あらたに制度の輪郭を可視化するのである。
内藤礼(この展覧会の中で唯一「語らない」展示をしていた。セザンヌの隣にただ置かれた生成途上の絵画、それらのある空間の静けさ)、飯山由貴(こちらは逆に告発という語りの展示。文章が異様に読みやすかった。)竹村京(縫いとめること、そのまま包みこむこと、傷を時間として保存すること。損傷した睡蓮の「損傷」に形を与える)、ミヤギフトシ(物語を生き直しつつ変形させることによって元の物語の枠組みを批判する技法は企画展内にいくつも見られたが、映像と詩の完成度が高かったというか好みだった)、指弓寛治(ボランティアからカイロを受け取る上野の路上生活者たち、その目と鼻の先で煌々と輝く西美正面入り口の企画展の看板。)の作品が気に入った。特に竹村京の仕事はもう少し色々見てみたいなと思う。内藤礼はギャラリーショップに置いてあった本を読んで、文章もとてもよいということを知った。今度、買うかもしれない。今日はお金をやや使いすぎてしまったので何も買わずに帰った。
 
色々と思ってはみるけど、正直、本気で今日における芸術とは何かみたいな問いと取っ組み合おうというような意欲が私にはあまりないのかもしれない。それは、私にとっての芸術、あるいは創造物というのが、結局のところ治療だからなのではないかと思う。芸術が治療だといいたいのではなくて、私にとってマターになるような芸術とは、治療としての芸術であるということだ。私は医療が必要な問題を抱えているわけでは全くなく、それはきっとよいことなのだが、あなたの痛みは医療の対象になるようなものではないと言われ、それは抱えたまま生きることができて当然の痛みであると見捨てられたとき、その痛みは芸術にしか癒せないように思う。それは必ずしも「芸術」と呼ばれるものである必要はなく、スピッツであったり本や漫画であったりするわけだが、そうしたものによる癒しを得るときに必要なのは、客観的に価値のある理論や文脈ではなく、極めて私的なレベルで生起する私とそのものとの物語なのである。
とはいえ、その私的な物語の生成と癒しという出来事もまた芸術とは何かという大きな文脈に吸い込まれていく。どの階層で、いつ、どのように語るかというだけの問題なのだ。私的な物語は大きな物語を背景にしか生起しないのかもしれず、階層の間には循環があるのかもしれない。そして、それを誰と分かち合うのかという問題。分かち合えないこと、分かち合うべきこと、何かがパルタージュされるなら、私は誰からの分け前を受け取る資格を持っているだろう。