ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(買い物、恋のうた)

3/3(日)
休日の記録(土曜日のこと)
土曜日、ノロノロと起きてノロノロと洗濯をし、ノロノロとドラッグストアに出かける。行きがけに大量の白い服の集団を見かけ、何事かと思ったがライブのドレスコードの模様。いつかスピッツドレスコードをすることがあるだろうかと考えたが(もしかしてもうやったことある?)、彼らが「みんな」の象徴のような服装の規定を設けることはあまり想像できなかった。とはいえライトバングルをみんなでつけたくらいなので、いつか何色のアイテムを身につけてきて、というライブがあってもおかしくはないかもしれない。それはきっととても楽しいライブになるだろう。それでも、私は、スピッツと私の間にあるのは向かい合ったコミュニケーションでなくてもよいと思っている。スピッツが私に呼びかけ、私がスピッツに応答するような関係をあまり想像したことがない。確かに私はスピッツに語りかけられたと思っているし、それはある種のコミュニケーションの成立であるだろうが、そこにあるのは、スピッツが「私に」語りかけたのではなく、スピッツの語りが私にとって「語りかけるもの」であったというだけの、互いに目を瞑ったままなされる発信と受信のようなコミュニケーションである。
久しぶりに来たショッピングモールは様変わりしており、ほとんど唯一まともなアパレルショップとして機能していたURストアも閉店していた。もうここはだめだ…。しばらくぶらぶらしていると、しかし、買ったことのないプチプラショップにも会社に着ていけそうな程よいトップスなどが置いてあった。また今度ゆっくり見てみることにしよう。この日はるばるドラッグストアに遠征したのは、ここ一週間ほど史上稀に見る肌環境の悪化が続いており、もはやニキビなど気にしている場合ではないほど乾燥によって全顔が皮向け、赤くなり、粉を吹きビニールのようになってヒリヒリと痛んでいたため、これはもうニキビができるかも〜とかいってる場合ではないと判断し、より強力な保湿クリームを買おうとしたためである。土曜時点でだいぶマシになっていたのだが、目当てのクリームを買い、スキンケアのコーナーをぐるぐるして肌に悩む精神を宥めたりなどした。帰り道の途中、有田焼と波佐見焼のフェアが開催されており、とてもかわいかったので思わず物色してしまい、そば猪口のような湯呑みのようなものをひとつ購入した。ひとつひとつ形が異なっており、かわいらしかった。社会人になってから、絵よりもむしろ焼き物に心を惹かれるようになった気がする。なんだか自分が絵を好きなのか、よくわからなくなってきた。そもそも私が絵に興味を持ったのはどちらかというと思想的な理由からであって、絵を見たり扱ったりしたいというよりは、自分の考えていることを説明する道具の一つとして、絵をめぐる思想を利用したにすぎなかった。そういう場を離れたとき、私の好奇心の弱さでは、絵を別の側面から見てみようとあまり思えなくなった。だけどまだ、諦められない。絵を前にして、私が言いたかったのはこのことだ、と直感した時の感動を、研究から逃げた今でも諦められずにいる。そう、私は自分が研究から逃げたのだと思っている。だけどそれは本当のところ、「逃げなければまだやれた」という自己弁護にすぎないのかもしれない。焼き物の、懐の広さが好きだ。焼き物は、使われるものとしても装飾としても鋭利な思想の表現としても造形の実験としても、平等に焼き物であるような気がする。何をいっているんだろう。


恋のうたが大好きなので、いつもたくさん聴いているが、今日不意にこれまでと違う聞こえ方がした。Twitterでは字数の関係でうまく言えなかったので、ここでもう一度整理しておきたい。
 
「昨日よりも明日よりも今の君が恋しい」という歌詞に初めて聞いた時からずっと感動しているが、それはなによりもまず「明日よりも今がいい」と相手に言い切ることに対する驚きからきていると思う。昨日よりも今日の君が好きなのはわかるが、明日よりも今日の君の方が恋しいと言うのか。私はこの一節をスピッツの時間観と結びつけて理解している、というのはとりわけ昔のスピッツには「今日より明日はよくなるはず」という近代的な理念に対するアンチテーゼが強く感じられるからだ。それは時の流れが成長とイコールであることを否定する「削られていく生」というモチーフや、明日を確信できない海ねこに見られるような「今日だけでいい」という言葉、あるいは逆に「もうどこにも行かないで」という不安に通底するテーゼであって、これまで私はそこに無力感や弱さや恐れを見ていたので、「昨日よりも明日よりも今の君が恋しい」という一節から昨日も明日も信じられないが故に今に縋りつく僕の切実さを聞き取っていた。でも、「明日よりも今の君が恋しい」というのは、未来を見出せない状態に対する肯定であり、無力感や弱さや恐れを抱きしめるための、むしろ優しさではないのだろうか。恋のうたは、いかに自分に言い聞かせるうたであるかのように響いたとしても、君に向けて歌われるうたである。フォロワーさんが言っていたことを勝手にお借りしてしまうと、このうたの「君」には僕と君とがオーバーラップしているように思えるが、マサムネさんが近年の曲について「自分が言って欲しい言葉を書いた」と語っていたように、この初期の歌のことばもまた、実在する具体的な僕と君の物語であるというよりはむしろ、より普遍的な次元で僕によって「他者に向けられてほしい」と願われていることばではないのか。その願いは、たとえそれが昨日も明日も信じられない無力感に打ち勝てずにいる僕の弱さに由来するのであったとしても、やはり優しさである。この頃のスピッツは弱い。優しいのは弱いからだが、加虐的であるのもまた弱いからだ。スピッツにおいて「弱さ」は単なる短所ではなく、それでいて美点でもない。そうであるとしても、優しさはたしかに優しさなのだ。