ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

スピッツの歌詞について①

先日Twitterの好きな歌詞タグのために好きな歌詞を列挙し始めたらとまらなくなって、言いたいことがありすぎたのでコメントをつけてまとめてみました。本当はまとまった文章を書きたかったのだけど、うまく整理して論にできなかったのでまずは気軽に思ったことを書いておこうと思い。

はじめに声を大にして言っておきたいのだけど、ここに書いたことは全て私の勝手な個人的解釈および感想であり、しかもどんなに断定的に書いてあることであっても確信を持って言っているわけではありません。なんとか現時点でのスピッツの歌詞が好きなわけを言語化したくて、苦し紛れに捻り出した言葉なので。あと若干矛盾する歌詞の存在がまま確認されるけれどもそれをやりだすと永遠に何も言えなくなるのでとりあえず今思っていることを言いました。つまり結構恣意的な解釈および感想だということです。

書いてたら恐ろしく長くなって一向に書き終わらないので、一旦まとまったところまでを出してみます。まあここまでで既に7000字あるんだけども。力尽きて取りこぼした歌詞は結構あるけど、テーマ別にまとめて感想と思うことを書いてあります。ここまでのテーマは以下の通り:

 

1. 何もない

スピッツの歌詞によく出てくるし、スピッツの世界観の大前提がまず「何もない」ということなんじゃないかと勝手に思っている。雑に括ってしまうと初期は「何もない世界」と「唯一の存在である君」は割と対比的な感じで、1990年代中頃からは「何もない世界」の中に君も含まれる感じ、さざなみくらいから?は「何もない世界」だけどそれでも生きていくことを受け入れて、そのことに対して前向きになった感じ。
 
壊れながら君を追いかけてく 近づいても遠くても知っていた それが全てで何もないこと
「それが全て」であることと「何もない」ことが同時にあるのが好き。その絶頂と瓦解が同時に起こるような瞬間を準備するのが「君を追いかけていく」という上向きな動きと「壊れていく」という下向きな動きの同時進行で、その持って行き方も美しい。近づいても遠くても決して0距離にはならない「君」を、追いつけないとわかっていながら追いかけていく悲しさと喜びが入り混じっていて、もううまく説明できないんだけど、他者に触れられない痛みみたいなのが切々と伝わってきて苦しい。
 
はじめからはじめから何もない だから今甘い手で僕に触れて
「だから」っていう接続詞でこの二つを繋げるのがすごい。何通りにも読めそうな歌詞。この前の部分が「言葉も記号も忘れて」だから、それらを忘れて、はじめから何もなかったことにして、媒介するもの何もなしに僕に触れてほしいという風にも読める。ただ、言葉も記号も人工物であると同時にそれによって初めて世界があり得るという類のものなので、それらを忘れればそこにあるのは「純粋な世界」ではなく「無」でしかないとも言え、その意味では「はじめから世界なんて何もないよね」という諦めと「だからこそ君に触れたい、存在を感じさせてくれ」という切実さの並記とも読めるか。いずれにしても同じことかもしれないけど、少なくとも「何もないこと」と「君が僕に対して現れること」はスピッツにおいて無関係ではない、ということくらいは言えるかもしれない。
 
分かち合うものは何もないけど 恋の喜びにあふれてる
なんの属性も共有しない2人の関係は「恋」という特別な瞬間にしか存在できない。だから2人の関係には持続も未来もなく、その特殊な瞬間の後には霧散するのだろうけど、分かち合うものがないからこそ、関係が生まれる瞬間は生の他者に触れる恍惚の瞬間でもある(「甘い手」について言ったことと近い)。そのことがスピッツの恋の歌を聴いた時に哀しさと喜びを同時に感じる理由なのかもしれない。恋の瞬間はいずれ幻として消え去るフェイクの瞬間であると同時に、この上ない真実に触れる瞬間でもある、きっとスピッツが歌っている君との恋ってそういうものなんだろうな。ということをずっと思いながらこの曲を聴いているのでフェイクファーは私の経典になった。


2. 嘘・フェイク・偽物・幻・夢

「何もない」とある意味同じことかなと思うけど、スピッツの歌詞空間というのは、基本的には現実ではなく嘘の方がより重要性を持ってしまうような空間であるように思われる(だんだん嘘を糧に現実を生きてく方向にはなっているけど)。嘘という部分には幻や夢や偽物を代入してもよく、つまり虚構が現実よりも前景に出てきてしまうような世界なのである。ただ、虚構が虚構として存在するには現実が存在しなければならず、虚構を見ている人間は現実の側に存在しなければならない(そうでなければ虚構は現実になってしまう)ので、スピッツ的な「僕」は結局現実の側にしかいられない。テーマの先取りになるけど、スピッツが常に生きていく側の人間として歌っているのはそのためだと思っている。また「虚構の方が良い」という完全な価値観の逆転は起きておらず、「本当なら虚構よりも現実の方が重要であるにも関わらず」という仕方で現実の論理が生きていることも重要であると思われる。
 
本当の神様が同じ顔で僕の窓辺に現れても
君は偽物の神様だったということを間接的に言っているんだろう。その上で、そのもう失われた偽物が本当の神様よりも自分にとっては真実になってしまったということが伝わってきてたまらない。あと、ここではやらないけど「窓辺」というテーマでもいろんなことが言えると思う。
 
柔らかい日々が波の音に染まる 幻よ覚めないで
見てるものが幻だとわかっている人間の言葉。幻の中にいる自分を現実側から眺めたり現実にいる自分をそのまま幻に飛ばしたりしながら、幻と現実の両方に同時に存在しているところがスピッツのいいところだと思ってる。冷静に考えると、通常「波の音に染まる」という言葉は何かが消えていくことを指し示しはしないはずなのに、聴いただけで柔らかい日々がだんだん透明になって消えていく様を想像させられる(私の場合)のはすごい。
 
落書きだらけの夢を見るのさ 風のノイズで削られていくよ
何度聴いても本当に美しい歌詞。渚でもそうだけど夢や幻が消えていく様が音で表現されてるのを見るにつけ、やっぱりこの人は最終的に自己表現手段として音楽を選んだ聴覚の人なんだなあとか思う。それにしても風のノイズで削られていくってすごいよな…。
 
正しいものはこれじゃなくても 忘れたくない 鮮やかで短い幻
虚構の方が大切になって「しまった」という感じが強く出ている気がする。この幻を虚構というべきか過去というべきかなんというべきか迷うけど、要するにスピッツのいうところの「恋」なんだと思う。スピッツの曲のことを考えていていつも思うのは、この曲の主体は理(普遍的な価値基準)と願望(個別的な価値基準)との間で葛藤しているんだなということ。両者の間に齟齬が生じるからこそそれらを分ける視線があるんだろうけど、それにしても普遍的な価値空間と個別的な価値空間という二つの空間の存在と葛藤をこんなに美しく様式化して表現しているのが本当にすごい。悔しい、もっと上手く説明したい、でも説明できないから好きなんだ…。
 
唇をすり抜けるくすぐったい言葉の たとえすべてが嘘であっても それでいいと
「嘘の方が真実になってしまった」という流れ星の頃から一歩進んで(?)「嘘か本当か」という枠組みそれ自体を中断する存在として「君」を立てているのがこの曲と言えるのかもしれない。「それでいい」と言い切ってるところに衝撃を受けた。ヤケで言ってるのではなく、素直に「それでいい」と言っているというか…それが許せるような、酩酊にも似た無感覚の瞬間がスピッツの曲にはある。
 
補稿:『魚』(全編)
虚構と現実の関係を考えるなら『魚』に言及せずにはいられない。というのも私はこの曲の中に「現実(と思っていたもの)が虚構になる瞬間」を見てしまっているので。上述の歌詞たちは虚構を虚構として認識している人間の言葉だけど、魚は途中まで海を海として見ている人間の言葉のまま進行する。たしかにスピッツの音楽の中で「海」はしばしば死や逃避のイメージと結びつく非現実的な空間であるとしても、はじめ私たちはやはり確かに海を見ている。しかしやがてその海は鉛色であるというイメージが挟まれ、フレーズが綻び、途切れ、鉛色のイメージがコンクリートという現実とダブっていく。そして虚構の海はいつの間にか消え去り、コンクリートの中で彷徨う僕だけがひとり残る…。もしかすると全然違う意味の曲なのかもしれないけど、私はこんなにも美しく幻が現実に溶けて消えていくイメージを見たことがなくて、この曲を聴くと必ずこの景色を想像してしまう。ちなみにSpotifyによると、私が2022年一番聞いた曲は『魚』だったらしい。
 

3. 痛みの中断

少なくとも2000年代に入るあたりまで、スピッツにとっての救いとは、喜びが増すことではなく痛みを忘れることであったと思う。「君」と出会う瞬間、スピッツの歌う「恋」の瞬間は、つまり現実を宙吊りにする瞬間なのである。
 
ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ
私がスピッツに落ちた決定打の歌詞なのでここに挙げておきたい。ズルいと同時に真面目でもある僕は、ズルく生きることも真面目に生きることも難しいのに、そのどちらも抱えて生きていかないといけない。そのことが苦しいと言い当ててくれたのも、そのことに対する救いを歌ってくれたのもスピッツだけだった。「気がした」はスピッツの頻出表現だけど、つまりその救いの瞬間は持続しなかった、束の間の予感でしかなかったということを指しているわけで、その意味でこの救いは痛みの「中断」でしかない。言ってしまえばそれは「リアル」な救いではないが、リアルではないものの真実性によってこそ生かされているのがスピッツなのである。
 
誰かを憎んでたことも何かに怯えたことも 全部かすんじゃうくらいの静かな夜に浮かんでいたい
そもそも「憎む」「怯える」という言葉の選択が素晴らしすぎる。あまりにも適切にスピッツすぎる。特に昔のスピッツは世界(他者)に対する拒絶感が強くて、「憎む」も「怯える」も自分の外にあるものに対して向けられる感情だけど、同時に、憎み怯えてしまう自分を抱えて生きていることに苦しんでいるという気もする。結局世界のことも自分のことも嫌いなのかもしれないけれど、その全てを中断してくれる宙吊りの瞬間がこの「静かな夜」であり、その夜に一瞬煌めいた君との出会いなんだろうな。
 
優しく抱きしめるだけで何もかも忘れていられるよ
スカーレットは穏やかな2人と彼らを包むホコリまみれの汚い世界との対比がいい。埃まみれの世界は変わらない、でも君がいる間だけはその世界を中断することができる。「君」は僕が現実の中で見る白昼夢なのだという感じが強くする曲。
 
独りを忘れた世界に白い花降り止まず
ここでもやはり僕は現実の痛みを一瞬忘れている。「独りではなくなった」とは決して言わないスピッツのことが好きだ。私の中でこの「白い花降り止まず」の瞬間は『謝謝!』のくす玉が割れる瞬間とリンクしていて、両者に対して共通の「ハッピーエンドの虚構性」的なものを感じている。

遠くから近付いてる季節の影を忘れさせてくれる 悲しいほどにきれいな夕焼け

好きすぎる。スピッツ濃度が高すぎる。終わりの訪れであると同時にそれを「忘れさせてくれる」夕焼けのような瞬間が「君」のいる瞬間なんだなあ。

  
全部それでいいよ 君はおてんとうさま
この「全部それでいいよ」は君が僕に対して言っているのか、それとも君が僕に対して言っているのか?歌詞から判断するのは難しいけど、さっきから言い続けている「中断」の瞬間はこの「全部それでいいよ」に包まれる瞬間であると思っていて、それでこの歌詞をここに入れました。
 
小さくなってく僕らなんだかすごくいい気持ち つまらない悩み事に二度と苦しむこともない
やや違う分類かもしれないけど近いことを言っていると思われる。「なんだかすごくいい気持ち」という言葉の適当さ、ぼんやり感がいい。酩酊状態…というかトランス状態にあるような。「二度と苦しむこともない」という言い切り方が超初期のスピッツという感じ。


4. 時間、今と永遠

さてこの虚構と現実という枠組みを機能させる上で、おそらく重要な役割を担っているのが時間なのではないかと思っている。上述の通り、スピッツの虚構は消えていくことにその本質があり、消えていくということは時間的事象なので。そう考えると、虚構とは「未来において過去になるもの」であるが、これを時間の側から見た場合、「未来」とはすなわち現実であり、「過去」とはすなわちかつて現実であった虚構である。生きる主体から見た場合には、「未来」とは現実が虚構になるであろう場であり、「過去」とは否定された現実の集積である。スピッツの曲の主体は基本的に常にこの過去から未来へと流れ続ける時間の中に生きており、その限りで常に幻は未来に消し去られていくわけだが、ここでひとつ注目してみたいのが、時間の流れの中に本来は存在し得ないはずの虚構の「点」、つまり「今」という瞬間の特権性である。
 
夜を駆けていく 今は撃たないで
現実の中断、現実から猶予されている瞬間を「今」と言っていることに注目したい。それにしてもここで「撃たないで」って言葉を出してくるのは本当になんなんだろう。すごすぎる。撃たれる訳も撃ってくる相手も撃つ武器もなにひとつ曲中には出てこないのに、「撃つ」という言葉はだから明らかに曲中で独立しているのに、この表現以外あり得ないというか、この一言で全てが足りてしまう。
 
昨日よりも明日よりも今の君が恋しいから
昨日より今の君が恋しいというだけなら「明日今日よりも好きになれる」的な発想として理解できるけど、明日よりも今の君が恋しいと言い切るのは何事か。素直に読むなら今ここにない昨日や明日よりも、今ここにいる君のことが大切ということなんだろうけど、穿った読み方をしてしまうので、それって時間からの逃避願望の裏返しなのではと思ってしまう。この歌詞の中で「今」という瞬間が昨日と明日に対する特権性を持っていることはたしかで、深読み星人としては、「今」という虚構が留保なしに存在できる瞬間が恋しいと言っているように聞こえる。とはいえまあシンプルに、後戻りできないのに前にも進めずに蹲っているから「今」にこんなにしがみつくのだろうとも思います。
 
変わらぬ時の流れはみ出すために切り裂いて今を手に入れる
これもうわーと思った歌詞。時の流れを切り裂いてはみ出したところにあるのが今だという…。少なくともここで言われている「今」は時間の外側にあるというか、幻を消し去り命を削り取っていく時間の流れに抗うようななにかなんじゃないか。それはたぶん「名もない街で一人初めて夢を探す」、その「夢」にあたるもので、冴えない僕が自分自身を超え出るような瞬間で、ある種のフィクショナルな瞬間なんじゃないかと…違うかな…。
 
待ち焦がれた「今」/いつかは傷も夢も忘れて だけど息をしてるそれを感じてるよ今
「今」と今を使い分けているところが本当に気に入っている曲(自分の解釈に都合がいいから)。括弧付きの「今」はここまでモニャモニャ言ってきたような特別な瞬間としての「今」。対して「何もかも消え去っていくけど、生だけは淡々と続く」という現実の時間における現在が括弧なしの今。夢の無-時間と現実の時間という二つの時間の中に同時に生きているイメージかもしれない。
 
未来と別の世界見つけた そんな気がした
1000回言ってるけど初めて聴いたときほんとに鳥肌がたった。「君」がいる世界は「未来と別の世界」、時間の枠組みの外部に位置する世界なんだよね。『フェイクファー』という曲の頂点を形成するこのフレーズは、そこで歌われてきた「すべて嘘でもいいと思わせてくれる恋の喜びの瞬間」がすなわち「未来と別の世界」であるというひとつの結論なのだろうけど、「そんな気がした」という一言でこの頂点が霧散していくところまでがセットでなければならない。つまり『チェリー』について言ったことと同様、時間の外部の経験は幻にすぎず、でもそれでもいいと思えたことがすでにして救いだったわけだからね…。
 
ついでに言っておくと、この「今」という瞬間の経験は、「時間の枠組みを免れる」という幻を垣間見る経験、つまりは永遠を垣間見る経験ではないのか。ひみつスタジオ発売時期のロッキンで草野マサムネは「「君との愛は永遠だよ」っていう永遠はたぶんないけど、「この一瞬は永遠かもしれない」って思うような永遠はある」と言っているが、そのありうべき「永遠」とは、「今」と表現されてきたこの瞬間のことではないのだろうか。「永遠なんてない」(『さらさら』)のは現実における真であるが、しかしその現実であり得ないもの=虚構としての永遠を存在させる場が「今」という瞬間なのであり、この虚構の真実性にこそスピッツの世界はかかっているのだと思う。