ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

小川洋子、スピッツ、物語

(10/1の日記より)※『琥珀のまたたき』のネタバレを含む。

小川洋子『物語の役割』を読了。小川洋子の小説はすべて絶対的に大きなものの理の前に首を垂れる物語であると思っているので、そのままのことが書いてあったなと思う。受け入れがたい現実を受け入れるために、それを自分の心の形に合うように変換するという営みがすなわち物語を作ることであるというのは、私にとってすでになじみ深い考えではあるが、納得することは救われることではないのだということにはこれまではっきりとは思い至らなかった。日航事故で子供を亡くした母親が「自分が子供を殺したのだ」という物語を作ることでしか現実を受け入れられなかったこと、ユダヤ人大量虐殺から生き延びた人が抱える「借り」の意識、あるいは本書に出てきたわけではないが『琥珀のまたたき』の母親が生み出した「娘を殺したのは魔犬なのだ」という物語は、現実の変換であっても救いではない。現実を理解するということは救いではなく、生きていくために必要なのは救いではないのだ。
琥珀のまたたき』は小川洋子の小説としては一番好きな小説だが、今考えてみるとこの物語には「現実を受け入れ生きていくための物語と救いとは別のものである」ということが描かれていたと思えなくもない。琥珀たちの母親は末娘の突然の死を理解することができず、故に「娘は魔犬に殺された」という物語を生み出し、魔犬から残りの三人の子供を守るために彼らを監禁する。この母親の物語が支配する閉ざされた空間は「正しさ」の空間ではなく、そこにはいかなる救いも存在しないが、彼女はもうその物語の空間でしか生きていくことができないのである。だから物語の最後、この空間が外部からの「救い」によって切り裂かれたとき、彼女は死ぬしかなかったのだ。娘を亡くしたときからすでに彼女にとって「救い」は不可能であり、その不可能さを徹底的に描いているところに私にとってのこの小説の価値があるように思う。
すべての話をシームレスにスピッツに移行させる芸人のようで恐縮だが、救いとか、あるいは正しさといったものと自分を生かす物語が別物であるというのはスピッツにも言えることで、私がスピッツを好きな理由はこういう言葉で語ることもできるような気がする。私が『フェイクファー』を好きだというのは、「僕にとって何よりも大切で重要である君との物語はフェイクでしかない」ということ、そして「それでもなおその物語は大切なのである」ということをこの曲以上に端的に克明に描いている曲はないんじゃないかと思っているからだ。この曲において(そして私はスピッツの多くの曲についても同じことが言えると思っているが)、君との物語は、正しさとも真正さとも現実性とも別の論理で紡がれる物語であり、その意味で「正しさ」という概念それ自体が含む正しさに対して弱い物語である。『琥珀のまたたき』(そして小川洋子の小説の多く)においてそうだったように、その弱い物語はいつか正しさ、真正さあるいは現実によって消し去られるだろう。「未来と別の世界」という君との物語の空間が、未来において「気がした」だけの出来事として回顧的に否定されるように。


 「小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方を歩いているなという感触を持つことがあります。(…)先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気づいていないような落とし物を拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を遺すために小説の形にしている。そういう気がします。」(75)


小川洋子の小説を初めて読んだとき、自分が意識的であれ無意識であれ切り捨て置き去りにしてきたもの、そしてこれからそうしていくものたちはここにきちんと保管されてある、だから安心して生きていって大丈夫だと思ったのを憶えている。そしてそれはスピッツを聴いた時にも思ったことだ。自分がこれから生きていくために変わっていく中で捨てなければならないかもしれないもの、忘れてしまうかもしれないもの、それらは私の代わりにこの音楽がずっと保管しておいてくれるだろう。ちゃんとずっとここにあり続けるだろう。だからおいていっても大丈夫なのだと思えたことは、私に生きていく力をくれた。だから私にとってスピッツはかつて存在したものの印を遺すための物語であるし、そもそもスピッツにおける「歌うということ」それ自体が、かつてあったもの、すなわち今はもうないものとしての「君」という過去の存在を「消えないように刻む」(『僕のギター』)行為なのではないかと思っている。それは、正しさや時の流れという現実の前で消え去る弱い物語を、正しさや現実性の後ろ盾なしに存在させることだ。以前の日記で、「小説とは正しくないことを正しい言葉で語ることができる空間である」という金原ひとみの言葉はスピッツにも当てはまるだろうと書いたが、そのときに考えていたのもおそらくはこのようなことなのだろう。スピッツとは、私にとっての物語であり、現実の形を変えるために紡がれる「君」との物語であり、その弱い物語の存在を刻印するための空間としての物語なのである。