ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(つながらない話)

2/19

 

つながらない話をします。


ここのところ、嘘か本当かよくわからない「発達障害者は精神年齢が実年齢の2/3」という説を繰り返し反芻している。自分が発達障害かどうかということはもはやどうでもよいのだが、確かに自分は精神的に幼いんだろうなあということはよく思う。よく思うが、じゃあ大人になれるのかというとそうではなくて、仕方ないので幼い自分のことを自罰して少なくとも幼いということに自覚的でいるだけマシですよねという体を装っている。「発達障害者は精神年齢が実年齢の2/3である」という何重にも攻撃的な言説は、自分で自分に刻み込む自罰の道具として程よいと思う。自己嫌悪も自己懲罰もそれらによる自己擁護も、すべて自己満足だ。
 
本を読んでいて、今よりもさらに幼かった数年前に、選択をする罪悪感に耐えられないという旨の文章を書いたことをふと思い出した。私が惹かれる(広義の)思想に共通するのは、「選択しがたいものを選択する」ことについて誠実であるということだと思う。それらは切り捨てがたいものを切り捨てることに敏感で、その摂理を避けることの不可能性を誤魔化さず、かといって選択することの罪深さや不完全さを忘れることもなく、その狭間で苦しみながら倫理的であろうともがいている。
 
仕事上で、「女性的なもの」について議論(?)する機会があった(どんな仕事だよ)。「女性」として括られること、その特徴について語られることに強烈な違和感を感じながら、そんなものは存在しないと言われることにも同じくらい強烈な違和感を感じた。私は安易な女性性の再生産をしたいとは全く思わないが、自らの意思によって女性でありたいと思う。私がどうこうということはさておき、こういうようなことについて、私なりに言葉にしてみたけれど、「頑張って話してるね」という哀れみと蔑みとで白けた空気になっていたと思う。この手の話を言語化するには確かに私の知識と技法は不足していたけれど、言葉にして訴えることに虚しさを感じていた。このことに限らず、私は言葉にしないと落ち着かない質だから色んなことを言葉にしようとしてしまうけれど、それを他者に向かって放ることに虚しさを感じている。虚空に消えていく自分の言葉を見ていると、自分の無価値さを感じてしまう。