ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(移動中に書いた)

12/28
新幹線の中で今週のことなど書きます。
・私は今中韓以外の海外営業を一人でやっているのだが(最初は二人いたけど一人やめた)、語学が必要な別の部署Aの仕事を手伝ってもいて(こんなクソ語学力なのに語学要員に認定されていることがすでにこの会社のガバさを物語っている)、それがこの度A部署に採用される予定が弊社側の都合で営業にやってくる中途の人を迎えるにあたり、その人に営業適性があった場合は私が別部署Aに行ってくれないかという話をされた。直属の課長がブチギレてくれていたけど、私は正直よくわからなかった。たしかに私は営業に向いてないし、別部署Aの仕事の方がきっと性に合っているし、その部署の仕事興味ありますって言ったことがあるからオファーが来たらしいし、会社もそれを望むというなら異動した方がいいのかな。だけど、そんな使い捨てみたいに取っ替え引っ替えされるのはむかつくし、ここまで泣きながら一人でやってきたのに今更「いい人来たからお前はいらない」なんて納得できないし、なによりなんかここで投げ出すのは悔しいなと思った。一応私がそうしたいなら異動、という体で話をされたので、私はまだ営業で頑張ってみたいです、とお答えした。でもよくわからない。そもそも本当に私に選択権なんてあったのか?
・作り置き鍋に飽きて、あと三日だしと思ったらなんかめんどくさくて3食買い食いしてしまった。詰めが甘い。
・会社の素敵な人が素敵にお仕事を助けてくれて、素敵な人っていいなあと思った。
Twitterでいろんな人の書き込みを見るのは楽しいけど、なんだかそれが少し疲れてしまう時期で、先日人とたくさんお話しして満足したのか発信する気持ちもそんなに湧かなくて、しばらく(といっても2日とか)引っ込んでいた。おすすめが非表示にできなくなってからストレスが増した。よく知らない人の強い言葉とか、聞きたくない。私はスピッツについてセンシティブだからスピッツに関する発言は結構好きと苦手がはっきりしていて、苦手な発言がバーッと出てくるとモヤモヤしてしまう。自分で発した言葉ですら、うるさいなと思ってしまったりする(今更だけど)。みんなのことは好き、現実を生きるスピッツの4人のことも大好き、だけどたまに、誰のことも、スピッツの4人のことさえも忘れて、「スピッツの音楽を聴く私」と「スピッツの音楽」の2人きりになりたいことがある。こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、極論を言えば私にとって、スピッツの4人とスピッツの音楽とは別のものだ。
・別のものってなんだろうなあということをずっとぼんやりと感じている。つまり何を同じカテゴリーとして認識できるのかということだけど、私は同じカテゴリーにたくさんのものを入れられる人のことをうらやましいと思っている。スピッツの音楽とスピッツの4人が別のものであるとすれば、たとえば私にとってスピッツの音楽とSpotifyがオススメしてくる「似たテイストの音楽」とは別のもので、同じカテゴリーとして認識できないから興味の対象にならない。オタクというのはあるひとつのカテゴリーを愛好する人のことだと思うけど、私はその人たちの雑食さに憧れる。映画オタクの友達は映画ならなんでも観ているし、クラシックオタクの友達はクラシックならなんでも聴いている。私にはその雑食さがない。ある対象aが好きだとして、私はその対象aを包括する上位カテゴリーAを立てるのが下手だと思う。本当ならそのカテゴリーに分類されてa1,a2,a3…となるはずのその他のものが、私にとってはa,b,c…というふうにしか現れないような気がする。
・しかし代わりに私は本来なら同じカテゴリーにならないであろうものを同じカテゴリーに入れてしまったりする(スピッツシューベルト小川洋子など)。そして、なんでそれが同じカテゴリーに入ったんだろうと考えるのが好きだ。
・新幹線の中でフラペチーノとスコーンを食べた。というのも、31日までのギフトチケットをまだ使い終わっていないことに気付いたからである。本当は三重に行く時に使おうと思っていたけど、三重より前に期限が来てしまうので、使うタイミングがなくここまでとっておいたのだった。いつもの休日のようにお昼ご飯を抜いて食べたならちょうどよかったのだけど、今日は冷蔵庫の中に残った豆腐を二つも食べてきてしまったので結構お腹がいっぱいで、なんてバカなんだろうと思った。なんてバカなのかしら、私。はあ。でも、ダークモカチップフラペチーノ?にアーモンドミルクとチョコシロップのカスタマイズをしたのも美味しかったし、スコーンも美味しかった。デブの食事だったけど美味しかった。でもめっちゃお腹いっぱい。やばい。実家に着いたらお腹いっぱいなの隠し通せるかな。
・フェイクファーという曲の美しさにあらためて感動している。「たとえ全てがウソであってもそれでいいと」という歌詞が、個人的なレベルで私を救ってくれる。本当かもしれないけど嘘かもしれない他人の言葉を信じることができなくて、だけどフェイクファーでスピッツは「ウソでもいい」という救いの形を提示してくれた。信じられない寂しさを、そのまま宙に浮かせてくれた。それは本当の意味での救いではないかもしれないけど、私にとって受け入れることのできる最上級の救いの形だったような気がする。