ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(良いこと悪いこと許されたいこと)

11/9
良いことと悪いことが半々くらいであった日だった。悪いことというのは別に先月みたいなドカンドカンとした悪いイベントではなく、しんしんとしみる悪い空気、感情の澱みのようなもので、こういう空気を気にしていられるのは平和な証だ、と先月を終えた直後である今は思う。ここ最近やることが悉く裏目に出てあまりにも悲しくて自己肯定感がものすごく下がっていたけど、今日はやったことがいい結果を引き寄せてくれて、うれしかった。私はさまざまなことについて低能力なので悪いこともよく起こるし、悪いことが起きるともうとことん落ち込んでしまうけど、そのぶん良いことがあったときには心の底から嬉しくなって、嬉しい気持ちをとことん味わって、そのエネルギーを悪い時のために取っておかないといけないなと思った。
今日あった悪いことというのは本当に別に何も悪いことではなくて、たまに発生する他部署の人との合同作業があったというだけで、でもそこで自分は人と全然上手に話せないとか、人と話すのがこわいとか、嫌われるのがこわいとか、要するに人がこわいのだということがしんしんと実感されて、冷え冷えとしてしまったのであった。小学生だか中学生だかの頃から、ひとりぼっちになってしまう時にどんなふうにしていたらいいのか考えながら生きてきて、上手い方法なんてないけど、ひとりでも平然としてまるで周りに誰もいないみたいに振る舞うことを身につけた。でも本当は周りに人がいることもわかってるし、周りの人は「周りの人」と交流できてることもわかってるし、その中に入らないと正しくないこともわかってる。だからひとりで何がいけないの?と全身で主張していても心が縮こまって、ごめんなさい誰か許してくださいどうして私だけうまくできないの?と俯いてしまう。その凝りですら無視する技術も身につけたけど、でもやっぱり落ち込んでしまう。人と一緒にいるほうがさびしい。
 
許してほしいと思う。許されたいと思って生きている。昔はこの気持ちを「罪の意識」なのだと考えていたけど、少し違う気がする。「許されていない」ということがどういうことなのか、考える。罪を犯した状態が許されていない状態なのではなくて、許されていない状態を罪の状態と呼ぶのだというような気がする。私がほしいのは過去の罪という事実に対する救済ではなくて、単純に「許容される」という未来である。