ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

あとだし日記(疲、スピッツ、高安)

9/22夜の豪雨
純黒の悪夢をリアタイしたいという淡い希望は残業の前に消し飛んだが、眠さと疲労をごまかすためにいつもの三倍ほどコーヒーを飲んだため職場では割と元気だった。この時期になると会社に差し入れでシャインマスカットが置かれていることが多くなり、みんな意外と遠慮して余っているので私はその横を通過するたびに(というのは言い過ぎだが)一粒ずつ食べた。これくらいおいしいものを毎日食べられたらとても幸せだろうなと思った。残業の原因は主に文章作成のためだったのだが、或る程度目処がついたため残りは日曜にかけることにして退勤。その途端一気に疲労が襲ってきて死ぬのかも知れないここで死ぬのかもしれないと思った。家に帰ってゴースカの映像を観た。とりあえずまずは1987→を聴こうと思って、観始めた瞬間、強いお酒を飲んだときのようにふわっと体が暖かくほぐれて、真夏に一日中水を飲まなかった人がごくごく水を飲むみたいにスピッツを聴いた。元気になった。夜はすごい雨だったが、姉は泊まりに来た。最初言葉も発せないくらいつかれていたので対応も雑になり申し訳なかった。でももう仕事が忙しい時期に二日連続で泊めるのは控えようと思った。
 
9/23突然涼しい
友人と銀座のロシア・ウクライナ料理の店に行き、コースを食べながら彼女の誕生日をお祝いした。相変わらず彼女はとても美しくて賢くて面白くて素晴らしく好きなのだけど、ここはちょっと勘弁してほしいなと思うところやコンプレックスを感じているところもあって、それでもなお付き合いを続けているのは、その欠点をまあいいかなと思えるくらい彼女のことが好きだからである。欠点はなくならないが、それを完全に受け入れられているわけでもないが、まあ…と妥協できるくらいの相手というのが、長く付き合い続けられる相手なのかなと思う。それは相手のことが好きだからなのか、期待していないからなのか、さまざまに理由はあるだろうが、完璧に合う相手なんていないし、そこでその欠点が許しがたくて縁を切ってしまう層と妥協できる層を隔てているのは欠点のレベルというよりも相手にどんな感情を持っているかなのだと思う。コースを食べた後は有楽町の地下で喫茶店に入った。ものすごくいい感じのところで、また必ず来よう、その時にはピラフとパフェを頼もうと思った。ピザトーストも食べたかった。まだまだ銀座・有楽町にはポテンシャルがある。ただ、あまりにも疲れていたのでいつもなら熱心に聞ける彼女の長話も途中で上の空になってしまったりなどして、これはなかなかやられているなと感じた。自分で自分の機嫌を取るというのはここ数年ずっと課題だけど、そのレベルというか、やり繰りの必要性のレベルは上がってきているようだ。とりあえず、あんまり残業しすぎないこと、人に会いすぎないこと、ちゃんと寝ることなどをがんばろうと思う。
彼女は自分の推しのことをたくさん達者な言葉で話してくれるのに、私は彼女にスピッツのことを半分も話せない。メンバーの名前と顔を紹介し、ライブが延期になったりしたことくらいしか話したことがない。スピッツの何が好きなのか、どうして好きなのか、どんな風に好きなのか、うまく言葉にして伝えることができないというわけではないけれど、それを言葉にして語れるような場を彼女との間に形成することができない。別に言う必要もないし理解されるかどうかなどどうでもいいことなのだと思う一方、自分の中に他者の前ではうまく出てこない言葉があるということ、そのためらいの感覚にずっと引っかかっている。
 
9/24秋晴れ
昨日から今日にかけても姉が泊まっていたので早朝に一度起こされてはいるが、今日はさすがにまずいと思い10時くらいまで二度寝をした。少し体力が回復したのを感じた。ただ、うとうと中途半端な眠りの中にいたとき、暗い夜道を迷いながら帰宅する夢を見ていて、ちょうど帰宅して母の声がしたあたりでこれは夢だと気付いたのだが、一向に夢は終わってくれず現実の部屋の中で母の物音がするような気がして、部屋に誰かいる、何の音、と必死で眼を覚ました瞬間にすべてが消えた。このさびしさの感覚がこわい。ぼちぼち家事をしつつ持ち帰った仕事の文章を作成した。800字程度という指示のところ1100字になってしまった文章をなんとか910字くらいにまで短縮し、諦めた。たぶん許される気がする。前も許されたから。社内には文章の上手な人がたくさんいて、私のゴミのような拙くて情けない文章が浮いている。会社のひとと大学院までにかけた様々なリソースに対して、申し訳ないなと思う。外は素晴らしい秋晴れで、部屋の換気を行った。外の空気は不味いが、秋の冷たさが感じられて快適だった(しかし窓を開けるとコバエがたくさん入ってくる)。窓を開けつつ換気扇を回さないとワンルームの空気はうまく循環しないのだということを、一人暮らし9年目にして知る。
一日レコードやCDをかけながら過ごした。一枚目としてドヴォルザークのチェロコンチェルトのCDを開けてみたら中身が入っていなくてがっかりした。なんでよりによってこれだけ入っていないの、とおかしくもあった。仕方がないのでレコードで8番を聴いた。二楽章のはじまりがすごく好き。かけたのはその盤ではないけど、そこの箇所はカラヤンの音の抜き方が私は好き。ブラームスとかドヴォルザークとかが聴きたくなると秋だなあと思う。あとは久しぶりにブレンデルシューベルトピアノソナタ20番の4楽章を聴いて、やはりこの盤は一生手放すまいと思った。文章がひと段落してからは、千秋楽をぼんやりと観戦していたら日が暮れた。高安はやはり優勝できなかった。ものすごく熱を入れて応援している力士というのが今はいないので、誰が優勝してもまあいいかなと思うけれど、高安が優勝したときには泣くと思う。みんなそうだろう、高安に優勝させてあげたいとみんな思っている。決定的な一番で星を落として、あのくまさんのような目に悲壮な表情が浮かぶのをもう何度見ただろう。優勝しなくたって立派な力士人生を歩むことはできるのだろうけれど、高安にいつか、一度でいいから、神様、優勝させてあげてください。