ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(遊び)

9/27
昨日の夜、ヒューマニエンスで「遊び」について取り上げていたので観てみた。生命の脅かされない仮の空間で目的に到達するための様々なオプションを発明するというところに遊びの結果的な意義があるのではないかとか、発明に必要なのは遊び(余白という意味での)なのではないかとかいうあたりはうんうんなるほどねと思っていたのに、突然「遊びというのはたいてい勝敗がある、人間が遊ぶ動機は他者に勝って強者になりたいという欲求である」とか言い始めたあたりからついていけなくなり、「人間の遊びは多対多である」と言われたところで「それは違うと思います!!!」と抗議したくなった。たしかにもちろんある種の遊びには勝敗があり、サルが一対一で遊ぶのに対し人間は多対多で遊ぶことができるというのは事実なのだろうが、それは遊びの一種であって遊びそれ自体ではないんではないか?遊びとは疑似空間において多対多で行われ勝敗を決定することにその本義のある行為である、というのはさすがに無理があるだろう。じゃあ代わりになんかいい定義があるんですかと言われるとよくわからないけれども、私の思い描いていた遊びというのは目的の達成に本義を置かないような規則に準じて行われる日常を括弧に入れた行為とでもいうようなもので、まあ、そもそも私は大人数で遊ぶことが嫌いです!!!!!!というのが実際のところこのイチャモンの動機なのであった。え、一人でも遊びは成立するだろ。相手に勝つために遊んでんの?マジ?しかしたしかに、私の生活には遊びがないような気はしている。楽しいことはある。しかし何かの規則に従って疑似空間において行われる「遊び」と呼べるようなことは何一つしていないような気がする。休日なにして遊んでるの?などと問われた場合、私はよくて「美術館にいきます」とか「街を非効率的に徘徊します」とかそんな答えしかできないし、言うほど美術館には行っていない。音楽を聴きます?休日じゃなくても聴いてますね、それにそれらはやはり「遊び」ではない。思うに、私の人生には遊びの場である「仮の空間」「疑似空間」とでもいえるような現実と自分の間の緩衝部分が足りていないのである。鷲田清一がコミュニケーションにおける「間」と言う意味での「遊び」ということを言っていたが、というか今参照してみたらその箇所には私の好きな木村敏が引かれていた!そのような他との間に本来あるべきはずの潤滑油的なものがなく、常に現実すなわち自己の生であるというような感じで現実と自己をナマのままゴリゴリとこすり合わせているような感じなのだ。街を無意味に徘徊する時、私は街を無意味に徘徊する遊びを行っているのではなく、生の全体を賭けて街を無意味に徘徊しているのであり、音楽を聴いている時、私は音楽を聴くという遊びを行っているのではなく、音楽を聴いているということがその時点における私の生の全体なのである。なんだか支離滅裂になってしまった。しかも、今日の日記なのになぜ昨日観た番組のことを書いているのか。昨日(やはり昨日なのだ)、フォロワーさんがスピッツチャンスというルールを採用しているというツイートをしていて、ああ、これだ、これが遊びなのだ。という気がした。
今日やったこと、クリーニングに出したスーツを取りにいった。ついでにおはぎを買った。半分で飽きた。無印良品に立ち寄っていい感じのキッチン布巾を探したところ、12枚セットのものしか売っておらず我慢ができなくて「12枚もいらんやろ」とツッコミを入れてしまった(いるのかもね)。部屋にラグを敷きたいと思っていて、いい感じのを見つけたのだが10,000円するため購入をためらっている。10,000円払って失敗したら泣いちゃうもん。日記を書いた。パソコンで書いた。パソコンで書くと永遠に文章が止まらなくなる。止まらなくて今。エルダーフラワーとレモンのハーブティーを飲みながら今。おいしいね。