ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(遊んだこと)

9/2暑いやんけ〜晴れ
友人と遊ぶ。案内をもらっていたのにすっかり忘れていた銀座エルメスの『エナメルと身体』展と資生堂ギャラリー石内都の写真展を見た。エルメスの方は小川待子さんが好きで案内をもらったのだけど(そして今回もとてもよかったのだけど)、安永正臣さんという人の作品もとてもよかった。「こちら側と向こう側」のあるインスタレーションで、こちら側のオブジェを眺めてから向こう側に行き、こちら側になった「向こう側」のオブジェを眺め、そのオブジェ越しに向こう側になった「こちら側」のオブジェを見ると、合わせ鏡を見ているような気持ちになるのだが、その間には埋まらない時間のズレがあり(ちょうど向こうとこちらを隔てる小石の川のように)、私はかつてこちら側だった向こう側のオブジェのもとに、自分の残像と不在を見ることになるという、そんな作品だった。点々と置かれたオブジェの一つ一つが何かの残像と不在の依代になっていて、時間のかたちが作品空間の中に見えたように思った。エナメルと身体というテーマの展示であったが、展覧会全体としては特にそのテーマ性を各作品に感じることはできず、テーマ自体はとても興味をそそられるものだっただけに残念だった。この一年くらい立体作品、とりわけ現代陶芸と呼ばれるようなものに関心を持っているのはおそらくその端的に「そこにある」という感じを不思議に思うからで、「そこにある」ものとしてあることと、それが作品としてあるということの間には何か有意な関係があるだろうと感じているからなのだと思う。「そこにある」ということが「自然」であり、作品とは「人工物」なのだとしたら、エナメルと身体というテーマは、作品が人工物であるということと、エナメルが皮膚や骨や歯といったある種の自然と地続きであるということの両者をうまく説明する手がかりであるような気がしたのだが。ただ、展示された作品を見ていると、作品が自然であると感じるのはそれが自然のものから出来ていたり何かに似ているからといった客観的な性質によるのではなく、自然とはむしろこちら側にあるものなのだという気がした。何を言っているのかよくわからないが。
そのあとは由緒正しく銀座のライオンビアレストランでランチを食べ、はまの屋パーラーでホットケーキとバナナジュースを飲んだ。最近、こういう「レトロ」な空間に惹かれるのはそれが流行っているからだろうか。有楽町や銀座の所々に見られるレトロさが好きだ。それは少し黄ばんでいて不恰好で、おしゃれであるとは残念ながらあまり思わないのだが、だからきっと安心するんだろうな。安心したいよね、間違いなくあった過去によりかかって。葛西臨海公園で観覧車に乗り、プリクラなども撮った。デコるのもポーズを取るのも下手で、こういうことに慣れていないといざという時どうにもならないんだなあと二人で爆笑し、大変楽しかった。スタバで22時近くまで話し込んで解散した。大変楽しかったしずっと大切にしていきたい友人であるのだけれども、だからこそだんだんズレていく人生をどう受け入れていけばいいんだろうとふと思ってしまう。私はどんどんこうして社会人として順応しかつていた世界の文脈や所作や決まりごとや言葉遣いを忘れていくだろう。そして彼女はその世界で間違いなく非常に才能のある人間としてそうしたものを先鋭化させていくとして、それでも彼女は異なる私と遊ぶことを楽しんでくれるに違いないが、私の方はどうだろうか。いつか悔しくて会えなくなってしまわないかと不安になる。自分のやってることをちゃんとやらないといけないな、と思う。
ついでに、以前一瞬付き合っていた人は彼女と私の共通の知人なのだが、昨日は交際関係にあった時期があるという事実を明かさずにたくさんの愚痴を言ってしまい、不実なことをしたと思った。そもそももう別れた人間の愚痴を言うなんて趣味が悪いし、自分の中に消化できない様々なモヤモヤがあるとしてそれを人にぶつけるのはあまり褒められたことではないとよくよくわかっているのに、現実はうまくいかないね。年々よくないなとわかっていることを抑えられなくなってきているのを感じる。どうしたもんかな。