ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(美術館、買い物、恋愛の歌)

10/8少し雨。秋の気温(うれしくて何度でも書く)

比較的早い時間から行動できたので、午前中はまずミュゼ浜口陽三の気になっていた企画展に行った。前回いった時は30分くらい歩いて行ったのだけど、今回は東京駅周辺をぐるぐる巡回している無料バスがあると聞き、それが水天宮前駅に停まるというので利用してみた。そもそもバスに乗るのが好きだし停車所から美術館まではとても近く、今度からはこれを使おうと思った。ただ、水天宮前の停車所には本当に何も目印がなく、嘘みたいなのだけど看板はおろか道路の印も痕跡もなにもなく、一応そこそこ大きな観光都市である東京にこんな一見さんお断り的な幻の交通手段が隠されていることにとても驚いた。何の印もない場所に人がぽつぽつと集まって来てみんなでバスを待っている様は不思議で、なんだか秘密の暗号を共有している集団組織ような謎の連帯感がそこにはあった。今日から私は都内無料循環バス結社の会員になったのである。さて、企画展であるが、大変よかった。なんにでも「大変よかった」のハンコを押しがちではあるが、これは本当によかった。この美術館はなぜこんなにいつもよいのだろうと思うけれど、浜口陽三の作品がよいのだからその美術館がよいのも必然なのかもしれない。今回の企画展は浜口陽三と三人の存命作家(桑原弘明、前田昌良、高島進)のグループ展だった。はじめ、桑原弘明のスコープ作品の中に入っているのは絵なのかと思ったが、小さなオブジェ作品であるらしい。スコープを覗くと小さな部屋があり、その上から光を照射すると時間が動く。動く時間のなかに生きているけれど自分で時間を動かしたことはないわけで、それでも知っているこの感覚はなんだろうと思ったが、記憶を何度も辿り直すあの感じにとても近いような気がする。スコープに光を当てて、部屋に差す一瞬の夕日の記憶をなんどもやり直した。前田昌良の作品は『猫を抱いて象と泳ぐ』のカバーに使われていたのですぐに分かった。装丁で見た時は、まさか本当に動くのだとは思わなかったが、今回の展示では実際に自分の手で触れて作品を動かすことができた。バカみたいな感想だが、自分は動くものが好きなんだなと思った。それも、何の意味も理由もなく、ただ動いているものが。木でできた人形の作品もよかったのだけど、私は針金で作られた作品がとりわけ気に入った。螺旋を巻く中心の棒を軸に、水平に取り付けられた針金の一方の球体を衝くと静かに回転し着陸するブリキの飛行機や、砂時計のようにひっくり返すと中心のコイルを伝って落ちていく星、そして足元に取り付けられた振り子を揺らすとよたよたと揺れる綱渡りの少年は、自分自身の意志で動いているのではなくて、何か別の場所にあって繋がれているものによって動かされている。一見素晴らしい操縦によって完璧な弧を描いて下降しているように見える飛行機は、反対側の錘の遠心力によって回っているのであり、着陸と停止の瞬間を決めるのは螺旋の軸の長さである。だから、飛行機の停止は自然な停止ではなく、突然の停止なのだ。オブジェたちの動きは、自分ではどうしようもない力の前でとても慎ましやかだった(すかさずスピッツの話を差し込むと、「バスの揺れ方で人生の意味が分かった日曜日」という感覚に少し近いのかもしれない)。それと、小さな丸いブリキの缶の中で星が瞬く作品は、本当にひとつほしいと思った。高島進の作品はその制作過程を聞いて『人生使用法』を少し思い出した。インクを継ぎ足すこともなく色もさいころの目で決める偶然性に委ねられた制作で、私はそのこともそうだし、ほんの僅かな手のぶれが、そのぶれに沿うようにその後の線を反復していくためにだんだん大きなぶれとなって作品全体の波となり紋様を描いていくのが、「主観を排除する」制作を人間が行うことの意味を象徴しているような気がした。浜口陽三はいつも通り好きだった。レゾネかなにかに寄せられた文に、浜口の作品は官能的であるというような主旨のものがあって、それを読んで以来浜口の作品を見るたび、これが官能という感覚なんだ…としみじみする。いつか蝶を一枚欲しいなと思うけど、私の家できれいに作品を保存できる自信がない。ところで、自分が購入するということを考えたとき、これは版画作品なので世の中に同じ絵柄のものが何枚もあり、だから購入するということも割と現実的に可能なわけだが、もう「新品」というものは存在しないんだということをふと実感し、そういうものにどんな形であれ携わることの責任をはじめて(いまさらはじめてでいいのか…?)ちゃんと感じたような気がした。

もうすでに1700字とかになってしまった。その後は秋服やらなにやらを見るために買い物に出た。一応ちゃんと買い物ができたし、この秋冬でこんなものを買おうかというイメージも徐々に出来上がってきた。最近「ていねいな暮らし」というのにあこがれているのでというかこれまでの暮らしがあまりにも雑でさすがにちょっと自分でも気持ちよくないなと感じ始めたので、ちょっとだけいい布巾を買った。これだけ聞くと意味がわからないと思うが、これまで私は洗った食器をそのまま水切りに置き、自然に乾燥したものからまた皿として使うということをしており、少しこう、水がぽたぽた垂れるなとか水滴のあとがつくなとかそのまま放置するとちょっとべとべとしてしまうなとか思い始めたので、水をちゃんとふこうと思ったのである。別になにも褒められたことではないけど、私は普通に10年前の安いタオルとかまだ使ってるし、どうせ一回買ったらそういうスパンで使うことになるなら、100均で買わなくても別にいいのかもと最近思う。10代あるいは20代前半の頃と比べて少し変わったと思うのは、未来をやや長いスパンで考えられるようになってきたことだ。前は1年後のことも想像できなくて、高いお金を出して何かを買うのも怖かったし、ベッドやマットのような大きなものを買うのも怖かった。自分のことが少しよくわかってきたというのもあるし、就職してそう簡単に人生の舵を大きく切れなくなったということもあるだろう。もし、あのまま博士課程に進んでいたらどうだったのだろうとたまに考えるが、それもまた過去になりつつある。いいのか悪いのかわからないけれど。諦めたのかもしれない、どこにいっても結局つらいんだ、死ぬほど追い詰められていない以上は、逃げずに生きていくしかないんだと。

ロック大陸を聴きながら突然「スピッツの歌は恋愛の歌ではない」という暴論を展開してしまったが、その文面だけでは言いたいことが伝わらないかもと後からモヤモヤした。確かにずっと恋について歌っているに違いないのだが、それは現実の恋愛に焦がれていることを歌っているわけではなく、むしろ現実のさびしさやつらさや痛みや喜びを語るための「型」が恋愛なのではないかと私は思っていて、だからスピッツが恋愛について歌っているのを聴いても、私に伝わってくるのは恋愛のことではないのである。もちろん曲の書き手である草野マサムネは恋愛もたくさんしてきただろうし、恋しやすいタイプなんだろうし人と普通に付き合えるタイプなのだと思うので、普通に恋の歌だと思って書いているのだとしてもそれは正しいのだけど、私のように自分に恋愛的性的眼差しを向けてくる異性のことを全員軽蔑し疑い憎んでしまう恋愛能力皆無の人間には、スピッツの歌はそう聞こえますというだけのことです。