ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(香港、本屋など)

3/31
あんまり日記を書く勢いがないけど昔の日記を読み返したらこんなことあったな〜ふふとか思って楽しかったので今日も日記を書くことにいたしました。


28日から30日まで二泊三日で香港に行ってきた。シンプルにクソ疲れたのは仕事だったからで、そうでなければ初めてのアジアにもっとワクワクできたかな〜でも一人で行ったらこんなホテル泊まれなかっただろうな〜と思った。海外に行くのは留学以来で、そのことにやや感動したりもしたのだけど、なにしろ自分の語学力が不甲斐なさすぎて、大金出させて留学しておいてこのザマか、としょんぼりした。しょんぼりなんていう言葉で片付けてはいけない、悔しくて涙が出そうになった、いや、虚しくてヘトヘトになって寝た。

香港について。香港は暑かった。暑くて、むしむしとしていた。ちいさな赤い蜘蛛がたくさんいた。街にはいろいろな国の人がいて、バカみたいに高いビルがアホみたいに密集していてギラギラしているのだが、いざ近くに寄ってみると古くて雑多な建物の中に雑多な雰囲気の生活がひしめいているのだった。そのギャップがあまりにダイナミックで、くらくらとする。なんというか、ビビッドでスケールの大きい街である。仕事が終わってから、九龍に渡って夜景を見せてもらったが、あまりにもビルの威圧感が強すぎて、ナウシカの巨大な虫たちが集まってきて私を見下ろしているようだと思った。

日本のものが多いことにも驚いた。日本がいっとき占領していたということもあるかもしれないが、外国でこんなに日本のものを見る機会というのはあまりなかったので。街の至る所にセブンイレブンや日本料理店があって商品の名前が日本語だったり、ちびまる子ちゃんが広告のキャラクターになっていたりホテルのドライヤーがパナソニックだったりしたので、ハブ駅のストリートなどはもはや半分日本かのようであった。でも、エスカレーターの流れる速さは完全に日本ではなかった。あれが香港人の生きるスピードか。世界を2倍速で見ているのかと思った。

食の思い出。肉がドーンとしていて美味しかった。二日目の夜、一人で夕飯を食べに出たところ、当然のように相席に通された。これまで日本でも他の外国でも一人で入って相席に通されたことはほとんどなく、この一回の経験で何を言えるわけでもないだろうけれども、他人との距離感のようなものが土地によってだいぶ違うのだということを改めて感じた。香港は人と人との間に緩衝材のない感じの街であった。別になんの役に立つわけでもないのだが、街や国にはそれぞれ「こんな感じかあ」という「感じ」があり、その「感じ」をぼんやり味わうのが旅という気がする。本当になんの役にも立たないのだけど、その「感じ」のストックをたくさん持っておくと、それが新しいものに出会ったときに分類の指標になったりして、世界の解像度が上がりちょっと楽しくなるのではないかしら。
ところで、飛行機の中では川上弘美の『蛇を踏む』を読んでいたのだが、同書収録の惜夜記がとてもよく、その余韻で帰国後の今日は本屋さんに足を運んだ。彼女のエッセイを買い足すつもりできたものの残念ながら何も置いていなかったので、ウロウロしていたら楽しげな本がいくつか見つかり、四冊買おうか悩んだ末三冊に絞って購入した。その一冊が川上弘美が訳した伊勢物語で、買うつもりどころか出ていたことすら知らなかったのだが、ペラペラとページを捲ってみたところこれがよいのだ。本屋に行くと、あれも読みたいこれも興味あった、とどんどん欲しい本が出てきてキリがない。こんなに狭い興味しか持っていない私ですらこうなのだから、本が好きな人は大変だなと思う。
新しいジャンル、新しい世界の本を読むことにあまり興味が湧かず、興味のないことに拒否反応を起こしてしまう質なので、私の部屋の本棚は身内の狭いコミュニティによって形成された会員制バーのような状態である。この人は好きな作家の小説の解説を書いていて、その解説の文章がいい感じだったのでよし。この人はその解説を書いていた人の小説について度々影響関係が語られている文豪だからよし。この本は信用している友人が薦める本でペラペラしてみたら面白そうな感じだったのでよし。この研究者は前に私が好きな思想家の本を翻訳していて関心が近そうだからよし。等々。一見さんとして入ってきた本がないでもないが、それは稀な出来事であって、多くの場合、私が手に取るのは「筋の辿れる本」である。狭い世界で生きているといえばその通りで、読んできた量も範囲の広さも読書好きと言えるようなものでは全然ないけれども、本棚から本を一冊手に取って、この本はどうして私の本棚にやってきたのだったか、と記憶を辿るのはなかなか楽しい時間なのである。