ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(好きな本の冒頭を語る)

3/24 

 文章を書くための姿勢というものがあって、何か書きたいあるいは書かないといけないというときに、うまく言葉を出力するための姿勢ということだが、私の場合は大体五種類。Twitterに書く、スマホのメモ帳に書く、スマホのWordに書く、PCのWordに書く、そして紙に書くというのがそれである。どう書いても同じなような気もするが、言葉の出方がやや異なるので、その時々で気分や内容に合った姿勢を選択する。この日記は大抵一日の終わりにスマホのWordで書くのだが、今日はまだ夕方前だし、休日に何かしたという手ごたえが欲しかったのでPCで書いている。

 土曜日、Bunkamuraのホームページを見ていたら金原ひとみのエッセイページがあり、すでに単行本化されたものを持っているとはいえWebで見かけたのは初めてだったので開いてみたところ、最初の数行を読んだだけで、文体が好きすぎて興奮してしまった。金原ひとみの文章がものすごく好きなのだ。最初の文章で本の良さが決まるとは全く思わないが、一ページ目で衝撃を受けた本というのは自分の中で特別になることが多い。そんなことを考えていたら、好きな冒頭の文章のことを語りたくなったので、以下ではこれまで読んできた本(かつ今手元にある本)の中でとりわけ記憶に残っている冒頭の文章をいくつか語らせてもらいます。 

 

  1.  

 記憶にあるかぎりはじめて冒頭の文章そのものの美しさに衝撃をうけたのは、コレットの『青い麦』だった。一頁目を読んだとき、自分の周りの空気が輝き青い風が吹き抜けたような気がした。なぜたったあれだけの文章で、あんなにも具体的な或る瞬間の全てを切り取ることができるのか、ヴァンカという少女の、ブルターニュの潮風の、降り注ぐ太陽の光の全てを表現できるのだろうか。コレットの小説はそれからもいくつか読んできた。どれもこの冒頭の感動を裏切らない五感と心を内側から触られるような作品ばかりだったが、中でも『シェリの最後』の後半に他者からの無関心を「冷たい菫の花束を閉じたまぶたに押し当てたような快さ」と表現している箇所があって、些細な一文ではあるけれども、これは今でも私のお気に入り表現の一つになっている。 

 

「漁に行くのかい、ヴァンカ?」 

 横柄にうなずいて、春先に降る雨の色の目をした日日草のヴァンカは、そうだわよ、見たらわかるじゃないの、これが漁の支度だぐらい、と答えた。彼女の継ぎの当ったジャケツも、潮で固くなった足袋靴も、それを証拠立てていた。三年も前に作ったので、今では短くなって膝ののぞいている、青と緑の彼女の格子縞のスカートも、これが蝦や蟹を捕る時の専用品だと、みんなが知っていた。それにまた肩にかついだ二張りのたも網、浜あざみのように毛ばだった空色のベレー帽、こういう七つ道具を見ただけでも、これが漁の支度だくらいわかりそうなものではないだろうか?

コレット著、堀口大學訳『青い麦新潮文庫、1955年、5頁) 

 

  1.  

 サン=テグジュペリの著作集に収録されている文章の一つに飛行機の離陸シーンから始まる小説(の抜粋)があるのだが、この冒頭を読んだときにも鳥肌が立ったのを覚えている。そもそも私は彼が描く飛行シーンを愛しているけれども、この始まり方の魅力は格別だった。離陸前の高揚、集中、風の唸り、そして重力から解放され、空の上に安定を見出す機体。飛行機の操縦などしたこともないのに、この冒頭を読んだとき、私は空を飛んだのだ。この箇所に限らず、サン=テグジュペリの描く情景はどれも本当に美しい。夜明けに向かって飛ぶ飛行機が発見する、地平線に湧き出る太陽の泉。嵐の中で一つ見つけた星を目指し、雲上に突き抜けた先の凪いだ夜(この夜空に出てしまった飛行機は、もう生きて帰ることはできないのだ)。そして不時着した砂漠で眠る夜、見上げた星空の水盤の深さ…。 

 サン=テグジュペリは私にとってとても大切な作家であって、私の思想の根幹は『人間の土地』が形成したようなところが一部あるけれども、今読み返すと文章の随所に過剰なヒロイズムやマッチョイズムを感じてしまったりもし、そのことについてはやや複雑な気持ちでいる。それでも、むしろその違和感も含めて、私はこの作家の書いたものをこれからも一生読み続けていきたいし、その思想について考え続けていきたい。 

 

 力づよい車輪が車どめにくいこむ。 

 プロペラの風にうたれて二十メートル後方の草までが流されそうだ。パイロットはその手首を動かして、嵐をときはなち、また抑える。 

 騒音はなんどもくりかえされるうちに昂まっていき、いまでは密度の濃い、ほとんど固体のようなものとなって、かれの体を閉じこめる。かれのなかのあらゆる空虚がそれでみたされたとき、はじめてパイロットはつぶやく。「これでよし」それから指の背で機体をなでてみる。震えているものはなにもない。これほどまでに凝集されたエネルギーに、かれは満足しきっているようだ。

サン=テグジュペリ著、渡辺一民訳「飛行家」『サン=テグジュペリ著作集6』みすず書房、1962年、15頁) 

 

 

3. 

 大好きな冒頭といえば、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』は外せない。この思想家、「こうして私は地上でたったひとりになってしまった」と、出版物の第一声で語るのである。やけに外向的な孤独ではないか。今私の手元にあるのは岩波文庫版だが、光文社版のあとがきにある「独り言にしては声が大きい。だが、こちらに話しかけているのかどうか、定かではない」という訳者の評がぴったりだ。この本の中で(そしてもちろん『告白』もだが)、この「地上でたったひとりになってしまった」らしい語り手は、自身のぐるぐるとした思考とあちこちに飛んでいく夢想や追憶をひたすら、ただひたすらしゃべり続けている。しつこいぐらいにずっと一人でしゃべり続けているのである。彼は幼稚なくらい純粋で感じやすい。気弱なようでやたらと強気、頑固で夢見がちでネガティヴで、それなのに妙に人間というものを信頼している。そして、ほんの些細な事柄を無限に引き延ばして思考する。世紀の大思想家に対して失礼なようだが、私はルソーの本を読むと、笑えるくらい親近感を覚えると同時に読み終る頃にはちょっとうんざりしていて、それでもやっぱりしばらくすると、また話を聞かせてほしくなるのである。 

 

 こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されてしまったのだ。

(ルソー著、今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』岩波文庫、1960年、11頁) 

 

 

4. 

この日記の初めの方で言及した金原ひとみに関して言えば、インパクトという点でAMEBICの冒頭は強烈だった。1ページ目で本を閉じた人も多分結構いただろうし、1ページ目を乗り越えたとしてもページを捲った次の見開きがこの1ページ目の続きで埋め尽くされているのを見て読む気をうしなった人もいただろう。いや、実はそんなことはないのかもしれない。錯乱状態の文であるにもかかわらず、この冒頭の文章は決して意味不明ではないからだ。このめちゃくちゃな言葉の連想ゲームはとても頭に馴染む。私はこの錯乱を理解できる、と感じてしまうのである。この理解不可能なようで理解可能な言語、あるいは、理解可能な言語的世界を内側から侵し軋ませ瓦解させようとする理解不可能性の言語。こうした言語が創り出す緊張感は、金原ひとみを読む楽しみのひとつであるなあと思う。ところで今の言い回し、ちょっと黒棺っぽかったね。 

 

 この美しく細い身体で。華麗にそう華麗に。どうにか。こうにか。私は美しく愛をしたい。見てくださいよこの身体ほらー、細いでしょ?もうんぬすごい曲線美でしょーこれ。ちょっと私は煙草を吸うんだけれども、ガムが邪魔でよくというかきちんと吸えないんだよね挙げ句の果てにくしゃみが三発。お前お前そのくしゃみよー、脳細胞ぶちこわしちまってねーかおいという協議は置いておいて振り返る。何故かと言えばずるずるだくだくになった私の鼻を少しでもファンキーにするためにまだまだもっともっとくしゃみを出さなくてはならないとう事で私は振り返って電気を見つめるのだよ。

金原ひとみ『AMEBIC』集英社文庫、2008年、5頁) 

 

とはいえ最初に述べた通り、たとえ冒頭を気に入った本が特別なものになりやすいとしても、特別な本の冒頭が印象深いとは限らない。私は金原ひとみと同じくらい小川洋子川上弘美が好きだけれども、今回家にある彼女らの著作をペラペラ捲ってみても、これはものすごく印象に残ったなというような冒頭は見当たらなかった。あるいは、私はルソーと同じくらいモンテーニュが好きだけれども、エセーの冒頭(こちらもなかなか強烈ではある)よりも夢想の冒頭の方が印象に残っている。特別な本に出会えることもそう多いわけではないが、特別な冒頭に出会えることはもっと少ない。本を開くときの楽しみである。