ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(氷枕の気持ち)

9/7あんまり覚えてないけど晴れてたかな?いや、くもりか、、、?

 

しっくりする枕がどうしても見当たらないというか、探せばあるんだろうけどそんなところにかけてるお金はないのでずっと首が痛いまま寝ている。なぜこんなことを書いているのかというと今寝ているからである。今日から強引に秋へと移行するために氷枕を排除してみることにする。氷枕で寝たら、昨日少し寒い気がしたので。氷枕、どんな気持ちなんだろうな。今日もキンキンに冷えて待ってますよと思いながら冷凍庫にしまわれて、そしてそれきりもう取り出してもらえなくなった氷枕の気持ちを考える。一緒に、昔遊んでいた人形のことなども考える。いつのまにかさようならも言わずに遊んでもらえなくなった人形やおもちゃなどのことを考えて悲しくなる。つかれているらしい。まあひょっとすると氷枕は私が今か今かと週末を待ち侘びているように夏の終わりを待ち侘びていて、この時間になっても冷凍庫から引っ張り出されないところを見ると、どうやら今日は待ちに待った休みのようだ!今年の仕事納めは終わった!やっほーい!と缶チューハイなどで乾杯しているところなのかもしれない。他人の気持ちなどわからないのである。
夜布団に入る前に、久しぶりに勉強とまではいえないが机にちょっとだけ向かい、ブラームスのピアノが聴きたくなったのでルプーのアルバムをかけた。音楽を聴いて感情や気分を動かすということが、とても正しくないことであると思っていた。今も少し思っているし、本当はなんでも「興味」で聴くことのできるちゃんとした音楽好きの人たちに憧れることもあるが、スピッツを聴くようになって、少し私の音楽に対する姿勢も柔軟になってきたように思う。ブラームスのピアノはよい。初めて聴いた時から、ずっとよい。よいなあとおもいながら、スピッツを聴いていないことが寂しくなる。スピッツを聴くときには、純粋にスピッツの音楽を聴きたいと思うときと、スピッツがいないと寂しくて無理だと思うときの両方がある。でも、スピッツがいなくて寂しいのか、寂しいからスピッツを聴くようになったのか、今はもうよくわからない。私の中の寂しさという心の空隙のかたちがスピッツなのだとしたら、やっぱり私にとってのスピッツスピッツにとっての君であると思う。
なんだかやっていることがメンヘラ彼女と大して変わらないということに悲しくなるが、人間と違って音楽はどんなに依存しても決していなくならない。私の中でスピッツの音楽とスピッツの構成員はある意味では全く別個の存在であって、たとえスピッツの構成員がいなくなったとしても、スピッツの音楽は私が手放さない限り決していなくならないと思っている。まあそんなに単純なものではないらしいということが、先日のコロナの件でよく分かったのであるが。