ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(華金)

9/1意外と涼しい晴れ
今週は色々あった。スピッツのライブが延期になり、仕事では余計なことをしてしまった気がするし、単純にとてもめんどくさいことになってしまった案件が自分の能力さえ足りていれば防げたことだと思いしんどかった。頭がうまく働かなくてやっぱり仕事ができないんだなあ自分はと思ったし、つまるところいっぱいいっぱいの一週間だった。おそらく、この一年と少しくらい、自分でもなんだかおかしいなあと思うほど心の状態がよかったのだと思う。別に私は心を病んでいるわけではないのだが、わりと常に雨模様だった心がなんとなくこの一年少しは晴れ晴れとしていて、私にしては前向きになったりなんかして、でもそれは社会人という新しい環境でハイになっていただけなのかもしれなかった。そんなことはどこかでわかっていた。でも最近やっぱりだんだん心がいっぱいいっぱいになってくると、ああやっぱりダメだったんだなあと少しかなしい。みんな大変でみんないろんなことを抱えて生きていると言われてきっとそうなのだと思うけれど、そうなのだとしたら、みんなが私と同じように心をしおしおとさせたまま生きているのだとしたら?社会はそんな人たちが作ったふうにはできていないと思う。私は1人だけ異なる重力のもとで生きているような気がする。みんなが陸の世界を軽々と走り抜けている中で、1人だけプールの中を走ろうと必死にもがいている気がする。でもほんとうはみんな、水の中を走っているのかもしれないね。そうやってみんな同じだと思うことが思考停止であると知っている。
それでもちゃんと金曜の夜はやってきて、会社を出たのは23時近かったけれど、ちゃんと金曜日の退勤はやってきた。スピッツを聴きながら帰る。心が一番無防備な時に、心が一番自分を守るための色々な装備を失った時に、スピッツの音楽は一番美しいと思う。こんな音楽を作った人がこの世界にいるのだということに、この同じ社会に生きているのだということに涙が出そうになる。ひとりぼっちのまま生きていくことに耐えられないのが人間の必然なのだとしても、自分以外の何かに触れるという経験、自分以外の何かと共にあるという経験とは、単純に人と人が明確な関係を結び同じ時空間を共有することではないのだという当然のことに思い至る。もし仮に私と同じことを感じている人間が私だけではないのだとしても(そしておそらくそれは事実だろう)、自分1人だけが水中にいるのだと感じる私の気持ちは変わらないが、スピッツは1人だけ水中にいるままでも生きていけると私に思わせてくれた。さびしいまま生きていけると思わせてくれた。それはやっぱり、ある種の孤独に対する救済だったのだ。

やっぱり上手に日記を書くことができない。なぜこんなに大袈裟になってしまうのだろう、お酒を飲んでいるからだろうな、華金万歳。