ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(夏が終わる、読了メモ)

8/26さーっとした雨、晴れ、入道雲
敷パットと2個目の枕のハイター漬けを決行。部屋の掃除。昨日はあんなに暴食するぞと思っていたのにいざとなったら全然食べたいものが思い浮かばず、マック食べたいな〜と思うもマックに行くにはなんと電車を一回乗り換えなければならず馬鹿馬鹿しくてやめた。何も食べたいものなんかないし、何もしたいことなんかないし、誰も会いたい人なんていないし、なんでこんなに虚しくて悲しくて溶け出してしまいそうなんだろうと苛立ち、マックの代わりにハッシュポテトでも買うかとコンビニに3時過ぎに出かけたもののどこのコンビニもなぜかハッシュポテトだけが売り切れで、何を買えばいいのかわからなくてもうなんかイライラして悲しくてつらくて、泣きそうな気持ちでハッシュポテトがないとわかりきっている二度目のファミマに入ったとき、夏が終わるが流れ始めた。さっきまでの辛くて悲しくて泣きそうな気持ちが嘘みたいに、まるで電気ショックでも受けたかのように、スピッツが耳に入った瞬間さあっと消え去った。音がするくらいに、さあっと消えた。スピッツもこんなハッシュポテトが売ってなくて落ち込んだ気持ちが救われましたなんていう話を聞いても嬉しくもなんともないだろうが、私にとってハッシュポテトが売っていなかったということは自分を全否定するに充分足りる出来事で、いや本当は全否定なんてしていなかったのかもしれないけれど私は本当にそのとき泣きそうで泣き喚きそうでその場にしゃがみ込みそうで、その気持ちが一瞬で全て消えたのだ。書いてみてもやっぱり大したことはないように思えるけれども、その変化それ自体は間違いなく衝撃的なことだった。もっとも、私が恐ろしく単純であるというだけなのかもしれないが。機嫌を取り戻して店員さんに尋ねたらハッシュポテトは数分で揚げられると言ってもらえ、ベルゲンの継続を済まし、観光客がビールを買っているのを見て「これだ!!!」と自分の今すべきことが天啓のように理解され、私は無事ハッシュポテトとミニストップのチキンとデザート、それにエールを買い込み通り雨が上がった後の夏の夕空を眺めつつ、スピッツを聴きながら家でビアガーデンをした。完璧な午後であった。
『オートフィクション』読了。読み終わったとき動悸が止まらなかった。別に衝撃的なラストがあったわけではないが(いやショッキングと言えばショッキングだったが)、文章のひりつきが、疾走感が、感情の動きが生々しすぎて苦しかった。何がこんなに好きなのかと言われるとそれは多分思考回路というか思考の様式が私と同じだと思うからで、つまりただの共感なのかもしれない。それも浅いレベルの。でもやっぱり、昨日読んだペットボトルを見つめているうちにペットボトルに惹かれてしまうということの滑稽さと同じように人を好きになることもある意味滑稽なことでというかある種の狂気でありフィクションであるということは、通読してこの本に一貫して描かれているなにかではないかなとおもった。そもそも小説自体がフィクションである上にその物語の中の主人公が書くものもフィクションであるという入れ子構造なわけだけど、フィクションを書こうとしなくたってそもそも自分の思考や感情が全てフィクションのようで、言葉でそれを掴み取っては違うと投げ捨てまた掴み取って投げ捨てていくという所作は身に覚えがあった(やはり共感なのだ)。未来から過去へと遡っていくことで安易な「この出来事が原因でこう考えるようになった」という論理を無効にしつつ(つまり思考の確実性正当性現実性のようなものを無効にしつつ)、未来などなく次の瞬間に死にたくないという気持ちだけで生きている刹那性も表現されているのかななどと思ったりもしたが、何よりやっぱり、言葉で語ることが全てフィクションにしかならないにも関わらず言葉と言葉の間、語られないところからこの上なくリアルなものが滲み出ているということが物凄いなと思った。次に読むもの迷うな。とりあえず買い置きしてあった川上弘美の『おめでとう』を手に取る。