ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(週間まとめて箇条書き)

4/6
妙に疲れた。あったことを書きます。
・会社がある日はだいたい毎日同じ内容の弁当を作って持っていっているのだけど、金曜日だけは好きなものを買っていいというルールを設けていて、昨日は買ったことのないビル内の和食屋さんでおいしそうなお弁当を買った。予算的には少し高かったけど意を決して買った焼き野菜入り銀鱈西京焼き弁当はしかし、すごくまずかった。味付けが濃すぎる西京焼と無味無臭の焼き野菜、なんか…野菜に塩くらいかけようと思わなかった?ごろごろした野菜は美味しいものだと認識できる大人になったと思っていたのに、一瞬で野菜嫌いの子供に戻ってしまった。私がごろごろした野菜を美味しいと思えていたのは、私が大人だからではなくて、私の周りの人たちが野菜を美味しく調理してくれていたからなのだということがわかり、またひとつ大人になった。
・本の冒頭の話をしたブログを今日のブログに入れてもらって、当社比いっぱい読んでもらった。公開にしてるくせに人に読ませる気がなくて、Wordに書いてる日記をそのまま載せてるだけだし、Twitterのbioにそっと置いておいて読んでくれる奇特な人が私のどうでもいい話をちょっと聞いてくれたら安心するという気持ちで書いているので突然いろんな人が読んでくれて寝巻きのまま出社してしまったような気持ちになったが、一人ぐらい寝巻きの人がいてもきっと誰も気にしないような社会に生きているはず。
・香港のお土産を買うとき、優柔不断のくせに無計画すぎて、定期的に会う親友2人と実家と会社でSKIIの洗顔フォームをくれた先輩のことしか咄嗟に思い浮かばず、その人たちの分だけしか買ってこなかったのだけど、会社に行ったら一緒に出張した仕事のできる男の子は部署のいろんな人に個人的なお土産を配布していて、人間としての差を感じた。(部署全体へのお土産は出張したメンバー一同として買ってあった)
・会社から駅に向かう途中の桜並木が開花した。夜、1人で上を見上げながらフンフンと歩いていたら、後ろから優しい会社のおじさんが「ここの桜綺麗だよね」と声をかけてくれた。その日に限ってイヤホンをしていなくてよかったなと思った。いつもはずっとスピッツを聴いているので。
・今年は話したい人には自分から声をかけて誘おうと思っているのに、まだ誰にも声をかけることができていない。昨日の夜、会社の仲良くなりたい先輩がランチに誘ってくれた。嬉しいな。私も人を頑張って誘っていこう。
・新入社員が入ってきたので、ささやかな歓迎会を取り行った。みんなちゃんとしててすごそうだなと思った。同じ席の立派で陽キャな後輩が「つきみおさんて絶対INFPですよね」と言ってINFPの性格を事細かに説明してくれた。「そうそう」と言わないと申し訳ないような気もするけど「そうそう」と言うとなんか内向的で積極性のない自分の欠点に開き直っているような気もするので「え〜そうかもハハ」としかいえないINFPムーブをかましてしまった。そんな彼は主人公タイプのENFJらしい。世の中に主人公タイプの人って本当にいるんだ。私のテーブルは私と陽キャな男の子2人のテーブルだったのだけど、その2人は一様に「自分は実は結構メンタル弱い」と言っており、メンタルが弱いことと内向的であることがイコールで結びついている自分にとって、「メンタルが弱くかつ外交的で上昇志向」という自己認識をしている人というのは謎でありおもしろくもあった。
・なんかすごく文章が下手くそだなあと思う最近。思ったことや感じたことをちゃんと文章で表現できたら、それだけで少し救われるような気がするのに、今のところ書いた文章を読み返すとそこにあるのはブサイクな思考の跡だけで、悲しくなる。好きなもののことをこんなブサイクな文章で綴りたくないような気もする。
・ネガティヴ半分ポジティヴ半分。

⭐︎

 

眠れないので三つの単語で文章を作って遊ぶことにする。
 
#君と僕と死で文章を作る
君が死んだとも知らずに生きていく僕
 
『突き放す』『反則』『約束』
世界中みんな突き放して、ひとり作ったルールの中で生きている。反則を反則だと認める約束を自分と交わす。
 
『幽霊』『純情』『熱帯魚』
私の透き通るひれを指でなぞりながら幽霊は「純情すぎたの」とつぶやいた。大丈夫、生まれ変わったら一緒に熱帯魚になろう。
 
『嗤う』『恥じらい』『咲く』
恥じらいながら差し出した言葉は嗤い声を立てる箱にするすると吸い込まれていく。覗き込んでみると、中には桜草が咲いているようだ。

日記(香港、本屋など)

3/31
あんまり日記を書く勢いがないけど昔の日記を読み返したらこんなことあったな〜ふふとか思って楽しかったので今日も日記を書くことにいたしました。


28日から30日まで二泊三日で香港に行ってきた。シンプルにクソ疲れたのは仕事だったからで、そうでなければ初めてのアジアにもっとワクワクできたかな〜でも一人で行ったらこんなホテル泊まれなかっただろうな〜と思った。海外に行くのは留学以来で、そのことにやや感動したりもしたのだけど、なにしろ自分の語学力が不甲斐なさすぎて、大金出させて留学しておいてこのザマか、としょんぼりした。しょんぼりなんていう言葉で片付けてはいけない、悔しくて涙が出そうになった、いや、虚しくてヘトヘトになって寝た。

香港について。香港は暑かった。暑くて、むしむしとしていた。ちいさな赤い蜘蛛がたくさんいた。街にはいろいろな国の人がいて、バカみたいに高いビルがアホみたいに密集していてギラギラしているのだが、いざ近くに寄ってみると古くて雑多な建物の中に雑多な雰囲気の生活がひしめいているのだった。そのギャップがあまりにダイナミックで、くらくらとする。なんというか、ビビッドでスケールの大きい街である。仕事が終わってから、九龍に渡って夜景を見せてもらったが、あまりにもビルの威圧感が強すぎて、ナウシカの巨大な虫たちが集まってきて私を見下ろしているようだと思った。

日本のものが多いことにも驚いた。日本がいっとき占領していたということもあるかもしれないが、外国でこんなに日本のものを見る機会というのはあまりなかったので。街の至る所にセブンイレブンや日本料理店があって商品の名前が日本語だったり、ちびまる子ちゃんが広告のキャラクターになっていたりホテルのドライヤーがパナソニックだったりしたので、ハブ駅のストリートなどはもはや半分日本かのようであった。でも、エスカレーターの流れる速さは完全に日本ではなかった。あれが香港人の生きるスピードか。世界を2倍速で見ているのかと思った。

食の思い出。肉がドーンとしていて美味しかった。二日目の夜、一人で夕飯を食べに出たところ、当然のように相席に通された。これまで日本でも他の外国でも一人で入って相席に通されたことはほとんどなく、この一回の経験で何を言えるわけでもないだろうけれども、他人との距離感のようなものが土地によってだいぶ違うのだということを改めて感じた。香港は人と人との間に緩衝材のない感じの街であった。別になんの役に立つわけでもないのだが、街や国にはそれぞれ「こんな感じかあ」という「感じ」があり、その「感じ」をぼんやり味わうのが旅という気がする。本当になんの役にも立たないのだけど、その「感じ」のストックをたくさん持っておくと、それが新しいものに出会ったときに分類の指標になったりして、世界の解像度が上がりちょっと楽しくなるのではないかしら。
ところで、飛行機の中では川上弘美の『蛇を踏む』を読んでいたのだが、同書収録の惜夜記がとてもよく、その余韻で帰国後の今日は本屋さんに足を運んだ。彼女のエッセイを買い足すつもりできたものの残念ながら何も置いていなかったので、ウロウロしていたら楽しげな本がいくつか見つかり、四冊買おうか悩んだ末三冊に絞って購入した。その一冊が川上弘美が訳した伊勢物語で、買うつもりどころか出ていたことすら知らなかったのだが、ペラペラとページを捲ってみたところこれがよいのだ。本屋に行くと、あれも読みたいこれも興味あった、とどんどん欲しい本が出てきてキリがない。こんなに狭い興味しか持っていない私ですらこうなのだから、本が好きな人は大変だなと思う。
新しいジャンル、新しい世界の本を読むことにあまり興味が湧かず、興味のないことに拒否反応を起こしてしまう質なので、私の部屋の本棚は身内の狭いコミュニティによって形成された会員制バーのような状態である。この人は好きな作家の小説の解説を書いていて、その解説の文章がいい感じだったのでよし。この人はその解説を書いていた人の小説について度々影響関係が語られている文豪だからよし。この本は信用している友人が薦める本でペラペラしてみたら面白そうな感じだったのでよし。この研究者は前に私が好きな思想家の本を翻訳していて関心が近そうだからよし。等々。一見さんとして入ってきた本がないでもないが、それは稀な出来事であって、多くの場合、私が手に取るのは「筋の辿れる本」である。狭い世界で生きているといえばその通りで、読んできた量も範囲の広さも読書好きと言えるようなものでは全然ないけれども、本棚から本を一冊手に取って、この本はどうして私の本棚にやってきたのだったか、と記憶を辿るのはなかなか楽しい時間なのである。

日記(好きな本の冒頭を語る)

3/24 

 文章を書くための姿勢というものがあって、何か書きたいあるいは書かないといけないというときに、うまく言葉を出力するための姿勢ということだが、私の場合は大体五種類。Twitterに書く、スマホのメモ帳に書く、スマホのWordに書く、PCのWordに書く、そして紙に書くというのがそれである。どう書いても同じなような気もするが、言葉の出方がやや異なるので、その時々で気分や内容に合った姿勢を選択する。この日記は大抵一日の終わりにスマホのWordで書くのだが、今日はまだ夕方前だし、休日に何かしたという手ごたえが欲しかったのでPCで書いている。

 土曜日、Bunkamuraのホームページを見ていたら金原ひとみのエッセイページがあり、すでに単行本化されたものを持っているとはいえWebで見かけたのは初めてだったので開いてみたところ、最初の数行を読んだだけで、文体が好きすぎて興奮してしまった。金原ひとみの文章がものすごく好きなのだ。最初の文章で本の良さが決まるとは全く思わないが、一ページ目で衝撃を受けた本というのは自分の中で特別になることが多い。そんなことを考えていたら、好きな冒頭の文章のことを語りたくなったので、以下ではこれまで読んできた本(かつ今手元にある本)の中でとりわけ記憶に残っている冒頭の文章をいくつか語らせてもらいます。 

 

  1.  

 記憶にあるかぎりはじめて冒頭の文章そのものの美しさに衝撃をうけたのは、コレットの『青い麦』だった。一頁目を読んだとき、自分の周りの空気が輝き青い風が吹き抜けたような気がした。なぜたったあれだけの文章で、あんなにも具体的な或る瞬間の全てを切り取ることができるのか、ヴァンカという少女の、ブルターニュの潮風の、降り注ぐ太陽の光の全てを表現できるのだろうか。コレットの小説はそれからもいくつか読んできた。どれもこの冒頭の感動を裏切らない五感と心を内側から触られるような作品ばかりだったが、中でも『シェリの最後』の後半に他者からの無関心を「冷たい菫の花束を閉じたまぶたに押し当てたような快さ」と表現している箇所があって、些細な一文ではあるけれども、これは今でも私のお気に入り表現の一つになっている。 

 

「漁に行くのかい、ヴァンカ?」 

 横柄にうなずいて、春先に降る雨の色の目をした日日草のヴァンカは、そうだわよ、見たらわかるじゃないの、これが漁の支度だぐらい、と答えた。彼女の継ぎの当ったジャケツも、潮で固くなった足袋靴も、それを証拠立てていた。三年も前に作ったので、今では短くなって膝ののぞいている、青と緑の彼女の格子縞のスカートも、これが蝦や蟹を捕る時の専用品だと、みんなが知っていた。それにまた肩にかついだ二張りのたも網、浜あざみのように毛ばだった空色のベレー帽、こういう七つ道具を見ただけでも、これが漁の支度だくらいわかりそうなものではないだろうか?

コレット著、堀口大學訳『青い麦新潮文庫、1955年、5頁) 

 

  1.  

 サン=テグジュペリの著作集に収録されている文章の一つに飛行機の離陸シーンから始まる小説(の抜粋)があるのだが、この冒頭を読んだときにも鳥肌が立ったのを覚えている。そもそも私は彼が描く飛行シーンを愛しているけれども、この始まり方の魅力は格別だった。離陸前の高揚、集中、風の唸り、そして重力から解放され、空の上に安定を見出す機体。飛行機の操縦などしたこともないのに、この冒頭を読んだとき、私は空を飛んだのだ。この箇所に限らず、サン=テグジュペリの描く情景はどれも本当に美しい。夜明けに向かって飛ぶ飛行機が発見する、地平線に湧き出る太陽の泉。嵐の中で一つ見つけた星を目指し、雲上に突き抜けた先の凪いだ夜(この夜空に出てしまった飛行機は、もう生きて帰ることはできないのだ)。そして不時着した砂漠で眠る夜、見上げた星空の水盤の深さ…。 

 サン=テグジュペリは私にとってとても大切な作家であって、私の思想の根幹は『人間の土地』が形成したようなところが一部あるけれども、今読み返すと文章の随所に過剰なヒロイズムやマッチョイズムを感じてしまったりもし、そのことについてはやや複雑な気持ちでいる。それでも、むしろその違和感も含めて、私はこの作家の書いたものをこれからも一生読み続けていきたいし、その思想について考え続けていきたい。 

 

 力づよい車輪が車どめにくいこむ。 

 プロペラの風にうたれて二十メートル後方の草までが流されそうだ。パイロットはその手首を動かして、嵐をときはなち、また抑える。 

 騒音はなんどもくりかえされるうちに昂まっていき、いまでは密度の濃い、ほとんど固体のようなものとなって、かれの体を閉じこめる。かれのなかのあらゆる空虚がそれでみたされたとき、はじめてパイロットはつぶやく。「これでよし」それから指の背で機体をなでてみる。震えているものはなにもない。これほどまでに凝集されたエネルギーに、かれは満足しきっているようだ。

サン=テグジュペリ著、渡辺一民訳「飛行家」『サン=テグジュペリ著作集6』みすず書房、1962年、15頁) 

 

 

3. 

 大好きな冒頭といえば、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』は外せない。この思想家、「こうして私は地上でたったひとりになってしまった」と、出版物の第一声で語るのである。やけに外向的な孤独ではないか。今私の手元にあるのは岩波文庫版だが、光文社版のあとがきにある「独り言にしては声が大きい。だが、こちらに話しかけているのかどうか、定かではない」という訳者の評がぴったりだ。この本の中で(そしてもちろん『告白』もだが)、この「地上でたったひとりになってしまった」らしい語り手は、自身のぐるぐるとした思考とあちこちに飛んでいく夢想や追憶をひたすら、ただひたすらしゃべり続けている。しつこいぐらいにずっと一人でしゃべり続けているのである。彼は幼稚なくらい純粋で感じやすい。気弱なようでやたらと強気、頑固で夢見がちでネガティヴで、それなのに妙に人間というものを信頼している。そして、ほんの些細な事柄を無限に引き延ばして思考する。世紀の大思想家に対して失礼なようだが、私はルソーの本を読むと、笑えるくらい親近感を覚えると同時に読み終る頃にはちょっとうんざりしていて、それでもやっぱりしばらくすると、また話を聞かせてほしくなるのである。 

 

 こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されてしまったのだ。

(ルソー著、今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』岩波文庫、1960年、11頁) 

 

 

4. 

この日記の初めの方で言及した金原ひとみに関して言えば、インパクトという点でAMEBICの冒頭は強烈だった。1ページ目で本を閉じた人も多分結構いただろうし、1ページ目を乗り越えたとしてもページを捲った次の見開きがこの1ページ目の続きで埋め尽くされているのを見て読む気をうしなった人もいただろう。いや、実はそんなことはないのかもしれない。錯乱状態の文であるにもかかわらず、この冒頭の文章は決して意味不明ではないからだ。このめちゃくちゃな言葉の連想ゲームはとても頭に馴染む。私はこの錯乱を理解できる、と感じてしまうのである。この理解不可能なようで理解可能な言語、あるいは、理解可能な言語的世界を内側から侵し軋ませ瓦解させようとする理解不可能性の言語。こうした言語が創り出す緊張感は、金原ひとみを読む楽しみのひとつであるなあと思う。ところで今の言い回し、ちょっと黒棺っぽかったね。 

 

 この美しく細い身体で。華麗にそう華麗に。どうにか。こうにか。私は美しく愛をしたい。見てくださいよこの身体ほらー、細いでしょ?もうんぬすごい曲線美でしょーこれ。ちょっと私は煙草を吸うんだけれども、ガムが邪魔でよくというかきちんと吸えないんだよね挙げ句の果てにくしゃみが三発。お前お前そのくしゃみよー、脳細胞ぶちこわしちまってねーかおいという協議は置いておいて振り返る。何故かと言えばずるずるだくだくになった私の鼻を少しでもファンキーにするためにまだまだもっともっとくしゃみを出さなくてはならないとう事で私は振り返って電気を見つめるのだよ。

金原ひとみ『AMEBIC』集英社文庫、2008年、5頁) 

 

とはいえ最初に述べた通り、たとえ冒頭を気に入った本が特別なものになりやすいとしても、特別な本の冒頭が印象深いとは限らない。私は金原ひとみと同じくらい小川洋子川上弘美が好きだけれども、今回家にある彼女らの著作をペラペラ捲ってみても、これはものすごく印象に残ったなというような冒頭は見当たらなかった。あるいは、私はルソーと同じくらいモンテーニュが好きだけれども、エセーの冒頭(こちらもなかなか強烈ではある)よりも夢想の冒頭の方が印象に残っている。特別な本に出会えることもそう多いわけではないが、特別な冒頭に出会えることはもっと少ない。本を開くときの楽しみである。 

日記(ひみつストレンジャー展)

3/20
ひみつストレンジャー
しれっとひみつストレンジャー展に行ってきた。結論から言うと、私はひみつストレンジャースピッツとして認識することはできなかった。できなかったけど、すごくいいなと思った。これが中途半端な歌詞の漫画化だったりしたらものによっては受け付けなかったかもしれないけど、junaidaさんの物語の強度がとてもしっかりしていたので、スピッツの曲としてみるというよりは、両方が主旋律の二重奏のような感じで、その二重奏がとても素敵なものに仕上がっていた。この感覚は何かに近いなと思ったけど、好きな解釈を読んだときの感じにたぶん近い。
個人的に曲といい相乗効果が出ていたなあと思ったのは、さびしくなかった、未来未来、紫の夜を越えて、アケホノ。特にさびしくなかったと紫の夜を越えてはよかったな。紫の夜を越えての1ページ目が入り口すぐのところにあったんだけど、それを見た時に「これは大丈夫だ」と思った。私の中のスピッツの世界との齟齬という意味で。「さびしくなかった」、1回目の「さびしくなかった」と2回目の「さびしくなかった」が別人の言葉だというのもそうだし、1回目は君といるときに発せられる「さびしくなかった」、2回目はきみがいなくなった後の「さびしくなかった」だという表現にも唸ってしまった。最後の「生まれ変わる」も絵本にしたからできた表現で、これは表現の一つとしてすごくいいなあと思った。なるほど!と思ったのはめぐりめぐって、一冊かけてきちんと世界(さまざまなものが実在感を持って存在していて探索できる世界)を作っていて、だからあの演出がとても効いてくる。この「世界がある」ということはスピッツについても感じていて、それはたとえば「サカリの野良猫」と夕焼けの中で言われたとき、ああスピッツの世界には「サカリの野良猫」がいるよねとわかる感じ、住みつき馴染みになることのできる空間として存在しているということだ。スピッツの曲というよりも絵本としていいなあと思ったのは大好物とSandie。特に大好物はjunaidaさんってこういう感じの人なんだなというのが私なりになんとなくわかったような気がしてよかった。
出てくる生き物たちがみんな愛嬌があって生き生きとしていて、思わず笑顔になりながら見てしまった。中にはスピッツではなくjunaidaさんのファンの方もいて、その人たちの目にこの作品がどう映っているのか、聞いてみたいなあと思った。

日記(春、迷い、アップルパイ)

3/16(土)
春の天気。嬉しくなって両国での用事の帰りに一駅分散歩をした。太陽を浴びるのが好き。家には遠赤外線ヒーターがあって、冬になるとエアコンではなくてそのヒーターの前に座って暖をとる方が好きなのだけど、もしかしてそれって太陽と同じこと?ですか?散歩がてら、お昼ご飯を外で食べた。今週は無性にタイ料理が食べたくて、土曜日に食べるぞと意気込んでいたのに、いざ土曜日になったら急速に食べたい気持ちが萎んでいき、タイ料理屋さんに向かう途中で見つけた小さなお蕎麦屋さんに入ってしまった。ミニカツ丼セットを食べた。カツに胡椒が効いていて、ジャンキーな味わいだった。蕎麦はもちもちとしていておいしかった(蕎麦がもちもちしているとして褒めるのは正しいのだろうか?)。両国は今、お相撲さんがみんな留守にしているので、なんだか神無月みたいな感じで、神無月みたいな感じって何?少し寂しいような気がした。少し春服の様子を見たりもした。何を着たらいいのかイマイチわからない期間がしばらく続いている。絶妙にツヤのあるリネン生地のとてもかわいいオールインワンがあったので試着させてもらい、まあまあ似合ったのだけど値札を見て断念してしまった。あと、そもそも着たとき、一瞬「オシャレすぎて私には似合わないかも」と思ってしまった。そんなこと、これまでほとんど一度も思ったことなかったのに!好きなものを好きなように着るべきであるという正義を掲げ、それを信じて疑わずに生きてきた。今も信じるべきであると思っている、だけど、無視できない「?」が浮かぶことが増えてきて、その「?」が生きているうちに刷り込まれてしまった汚れなのか、それとも感覚の深化なのか、判断できずにいる。自分という存在を客観的に評価できるようになってきたということなのか?


ひみつストレンジャー展がはじまった。行こうか行くまいか、非常に迷っている。実はひみつストレンジャーをまだ買っていない。マサムネさんが惚れこんでいる画家さんとマサムネさんの大事に大事に作られた本であることはよくよくわかっている。それでも、私はひみつストレンジャーを「スピッツ」として認識できるのか正直あまり自信がない。できる可能性ももちろんあるけど自信がない。というか、そもそもそれを「スピッツ」として認識できなかったとしても素敵な作品として鑑賞することはできるに決まっているのだが、行ってみて、読んでみて、思ったほど興味をもてなかったらどうしようと思っている。今、絵というものがよくわからなくなってややセンシティブな状態だということも不安材料で、行ったら楽しいかもしれない、だけど行ってからすごく心が疲れてしまったらどうしよう。さすがにあまりにも他者に対するキャパシティのレベルが幼稚すぎる。別に、カジュアルに楽しめばいいのだけど、「曲」というスピッツの根幹とモロに関わるので、自分の中の慎重スイッチが入ってしまっているのだと思う。でも、そんなこと言って、結局サクッと行って楽しく帰ってくるような気もしている。


Twitterで、机の上にあるアップルパイを指して「美味しそうなアップルパイがあるね」という時、そこになんの含意もないということはコミュニケーションの場においてあり得るのか、というツイートが流れてきた。当然あるに違いないのだが、その発言が果たして「コミュニケーション」という双方向の言葉のやりとりとしてうまいのかというと、それはたぶんどちらかといえば否である。「美味しそうなアップルパイがあるね」という発言はたぶん相手からの具体的なレスポンスを想定していない、と思うのは私がまさに「美味しそうなアップルパイがあるね」と言うタイプの人間で、それを言う時私は全然相手からのレスポンスを考えていないからだ。というか、私としては「ここになにそれがありますね」という報告に「本当だねえ」と相手が返してくれれば、それで安心し、ことは済むのである。このコミュニケーションはつまるところ、言葉を覚えたての幼児が対象物を指差しつつ親に対して「くるま!」「ワンワン!」「おほしさま!」などと言うのと同じことなのであって、私はひょっとするとこの「くるま!」「ワンワン!」「おほしさま!」に該当する要素の複雑性を進化させてきただけの幼児なのかもしれない。かつて友人が「自分はだれかに独り言を聞いて欲しいだけなのだ」ということを言っており、そして実際私たちは一緒にいた間、お互いに独り言を言い合っていただけのような気もするが、多分私も、相手からの応答を想定しない言葉を、つまりは独り言を聞いて欲しいだけなのである。多分も何も、このブログ自体がすでに長大なひとりごと以外の何物でもないが。この文章はすべて、「ワンワン!」を20余年かけて複雑化させた産物である。

日記(ねむ)

3/11(月)
朝起きたらとても眠くて、会社でもなんとなく頭が重くて、最低限のことをできるだけ急いですませてそそくさと帰宅した。昔はそんなことあまり思わなかったのに、ここ数年、自分の体のいる世界と自分の思考のいる世界が別々の場所にあるなあと思う瞬間が増えたような気がする。普通に歩いているうちに、頭の中をどこかに置いてきてしまったと感じたり、自分の周りだけ時間にかかる重力がとても大きくてぐにゃーんと時の流れが引き延ばされているような気がしたりする。置いてきてしまった頭の中身を手探りで引き寄せたり、周りより重たい時の流れの中を一生懸命泳いだりするうちに、ヘトヘトになってしまう。そういえば大学一年生の頃、バイトのお皿拭きが遅いと怒られてはじめて「もしかして自分って人と違うテンポで生きてる?」と違和感を感じ、サークルの先輩に「私ってマイペースなのかもなって初めて気付いたんですよね」と言ったら、どうしてそのことに気が付かずに今まで生きてこられたのかと驚愕された。私のことをよく見てくれている先輩だったんだなあ、きっと。私のことよく見てくれていたのに、ひどい別れ方をしてしまったから、もうきっと一生会うこともない。悲しいなあとたまに思う。ここのところとても寒いから、それで体がうまく動かせないような気もする。そして暑くなったら、きっとまたうまく動けなくなってしまうだろう。一年のうち、ほんの数ヶ月しかうまく動ける日なんてないのかもしれない。だけど、春になったら暖かくてふわふわした気持ちになってしまうし、秋には物悲しさでぼんやりしてしまうかもしれないし、じゃあもう、あんまり動くことに向いてないんだね。
冬になると毎日鍋を食べるのだけど、最近白菜がどんどん高くなり、スーパーの棚からはどんどん鍋の素が消えていくので、冬の終わりを実感している。春になったら、また献立を毎週考えなければいけない。面倒くさいなあ。鶏胸肉のみぞれ煮、塩肉じゃが、茄子とピーマンとひき肉のトマト煮込み、じゃがいもときのこの炒め物(オイスターソースとコンソメと醤油、どれがいいだろう)、鍋の季節のあいだ食べられなかった美味しいおかずのことを考えて気を持ち直す。新じゃがの皮を剥かなくてよいのも、春の素敵なところである。
また、一昔前の自分の文章を引っ張り出して読んでみた。何か系統立てて物事を語るということが壊滅的に下手な人間の文章だった。「すりガラスの窓をあけた時によみがえる埃の粒たちを動かずに見ていたい」的な細部執着型の、遅々として進まない描写が並んでいた(こんなことを言うためにスピッツの歌詞を持ち出してはいけない)。だけど何しろ書いた張本人たる私が細部執着型の人間であるので、書いたときに思い浮かべていた細部をなぞりながら読むのはなかなか楽しく、他の人が読んだらなんじゃこりゃという文章であっても、書きたいものを書いて残しておくというのは、よいことであるなあと思った。
滑り込みで書いておくなにか。人の書いたものを読むのは楽しい。親友と続けている文通も楽しい。長い文章をゆっくり読んで渡して、というコミュニケーションは心の健康に寄与するのではないか、私の場合。そうだ、今日起きたら、原因不明の切り傷が親指にできていた。ちょっと痛い。もう眠いな。眠ります。

日記(買い物、恋のうた)

3/3(日)
休日の記録(土曜日のこと)
土曜日、ノロノロと起きてノロノロと洗濯をし、ノロノロとドラッグストアに出かける。行きがけに大量の白い服の集団を見かけ、何事かと思ったがライブのドレスコードの模様。いつかスピッツドレスコードをすることがあるだろうかと考えたが(もしかしてもうやったことある?)、彼らが「みんな」の象徴のような服装の規定を設けることはあまり想像できなかった。とはいえライトバングルをみんなでつけたくらいなので、いつか何色のアイテムを身につけてきて、というライブがあってもおかしくはないかもしれない。それはきっととても楽しいライブになるだろう。それでも、私は、スピッツと私の間にあるのは向かい合ったコミュニケーションでなくてもよいと思っている。スピッツが私に呼びかけ、私がスピッツに応答するような関係をあまり想像したことがない。確かに私はスピッツに語りかけられたと思っているし、それはある種のコミュニケーションの成立であるだろうが、そこにあるのは、スピッツが「私に」語りかけたのではなく、スピッツの語りが私にとって「語りかけるもの」であったというだけの、互いに目を瞑ったままなされる発信と受信のようなコミュニケーションである。
久しぶりに来たショッピングモールは様変わりしており、ほとんど唯一まともなアパレルショップとして機能していたURストアも閉店していた。もうここはだめだ…。しばらくぶらぶらしていると、しかし、買ったことのないプチプラショップにも会社に着ていけそうな程よいトップスなどが置いてあった。また今度ゆっくり見てみることにしよう。この日はるばるドラッグストアに遠征したのは、ここ一週間ほど史上稀に見る肌環境の悪化が続いており、もはやニキビなど気にしている場合ではないほど乾燥によって全顔が皮向け、赤くなり、粉を吹きビニールのようになってヒリヒリと痛んでいたため、これはもうニキビができるかも〜とかいってる場合ではないと判断し、より強力な保湿クリームを買おうとしたためである。土曜時点でだいぶマシになっていたのだが、目当てのクリームを買い、スキンケアのコーナーをぐるぐるして肌に悩む精神を宥めたりなどした。帰り道の途中、有田焼と波佐見焼のフェアが開催されており、とてもかわいかったので思わず物色してしまい、そば猪口のような湯呑みのようなものをひとつ購入した。ひとつひとつ形が異なっており、かわいらしかった。社会人になってから、絵よりもむしろ焼き物に心を惹かれるようになった気がする。なんだか自分が絵を好きなのか、よくわからなくなってきた。そもそも私が絵に興味を持ったのはどちらかというと思想的な理由からであって、絵を見たり扱ったりしたいというよりは、自分の考えていることを説明する道具の一つとして、絵をめぐる思想を利用したにすぎなかった。そういう場を離れたとき、私の好奇心の弱さでは、絵を別の側面から見てみようとあまり思えなくなった。だけどまだ、諦められない。絵を前にして、私が言いたかったのはこのことだ、と直感した時の感動を、研究から逃げた今でも諦められずにいる。そう、私は自分が研究から逃げたのだと思っている。だけどそれは本当のところ、「逃げなければまだやれた」という自己弁護にすぎないのかもしれない。焼き物の、懐の広さが好きだ。焼き物は、使われるものとしても装飾としても鋭利な思想の表現としても造形の実験としても、平等に焼き物であるような気がする。何をいっているんだろう。


恋のうたが大好きなので、いつもたくさん聴いているが、今日不意にこれまでと違う聞こえ方がした。Twitterでは字数の関係でうまく言えなかったので、ここでもう一度整理しておきたい。
 
「昨日よりも明日よりも今の君が恋しい」という歌詞に初めて聞いた時からずっと感動しているが、それはなによりもまず「明日よりも今がいい」と相手に言い切ることに対する驚きからきていると思う。昨日よりも今日の君が好きなのはわかるが、明日よりも今日の君の方が恋しいと言うのか。私はこの一節をスピッツの時間観と結びつけて理解している、というのはとりわけ昔のスピッツには「今日より明日はよくなるはず」という近代的な理念に対するアンチテーゼが強く感じられるからだ。それは時の流れが成長とイコールであることを否定する「削られていく生」というモチーフや、明日を確信できない海ねこに見られるような「今日だけでいい」という言葉、あるいは逆に「もうどこにも行かないで」という不安に通底するテーゼであって、これまで私はそこに無力感や弱さや恐れを見ていたので、「昨日よりも明日よりも今の君が恋しい」という一節から昨日も明日も信じられないが故に今に縋りつく僕の切実さを聞き取っていた。でも、「明日よりも今の君が恋しい」というのは、未来を見出せない状態に対する肯定であり、無力感や弱さや恐れを抱きしめるための、むしろ優しさではないのだろうか。恋のうたは、いかに自分に言い聞かせるうたであるかのように響いたとしても、君に向けて歌われるうたである。フォロワーさんが言っていたことを勝手にお借りしてしまうと、このうたの「君」には僕と君とがオーバーラップしているように思えるが、マサムネさんが近年の曲について「自分が言って欲しい言葉を書いた」と語っていたように、この初期の歌のことばもまた、実在する具体的な僕と君の物語であるというよりはむしろ、より普遍的な次元で僕によって「他者に向けられてほしい」と願われていることばではないのか。その願いは、たとえそれが昨日も明日も信じられない無力感に打ち勝てずにいる僕の弱さに由来するのであったとしても、やはり優しさである。この頃のスピッツは弱い。優しいのは弱いからだが、加虐的であるのもまた弱いからだ。スピッツにおいて「弱さ」は単なる短所ではなく、それでいて美点でもない。そうであるとしても、優しさはたしかに優しさなのだ。