ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(マサムネさん、甲子園、冬瓜、読んでいる本)

8/23やや涼しげな晴れ

マサムネさんがコロナになったというニュースを私が見たのはちょうどスピモのツイートの数分後で、たまたままさにその発表のタイミングでお昼休憩に入ったのだった。はじめは心配だとか悲しいだとかの自分の感情がうまく掴めず、ただただショックとしか言いようがなくて、でもしばらくして一番心の上の方を占めている気持ちは「心配」なのだと思った。自分がコロナで割と軽症だったのをいいことにあまり重症になってしまうのではないかということには意識がいかず、それよりもマサムネさんがショックを受けてしまっているだろうことが気がかりだった。ドケチで有名な私だが(私の中で有名)、三重旅行のキャンセル料30%というそこそこの金額を見ても心は動かず、何か無意味な数字の羅列にしか見えなかった。これを支払うことになったとして、私は「こんなの安いもんだよ」とも「こんなにお金払うんだ」ともなんとも思わず、ただ無感情に決済を済ませるだろうと思う。私の中で感知できる感情は今のところ、マサムネさんがショックを受けているかもしれないということに対する辛さだけだ。他人が心を痛めていることについて心を痛めるなんてあまり普段の私に起こることではないが、しかしそうなのだ。

甲子園の決勝があったことをTwitterで知る。慶應の「イマ風」のやり方が過剰に持ち上げられているということも、そのせいだかなんだか応援がものすごいことになっていたことも一緒に知る。こんなふうに言ってしまってものすごく角が立つことはわかっているけど、私は子供のスポーツに過剰に意味を見出して勝手に感動したりもてはやしたりして自分達の娯楽にしてしまう大人という構図が心底気持ち悪いと思っている。勝負事は正気を失うと簡単に善悪二元論に転んでしまう。自分の正当性を主張するために簡単に相手のことを蔑ろにできてしまう。「慶應のやり方が正しいことが証明された、ほかの学校の旧態然としたやり方はもう古い」というような言葉は、一度でもちゃんと一生懸命何かに打ち込んだことがある人間だったらとても恥ずかしくて苦しくて言えないのではないかと思うし、私はその言葉を聞いて苦しいと思った。それがもし正しいとしても苦しいと思った。もしかすると小中と苦しい思いをして部活をしてきたことが心に残っているせいで、自分を否定されたように感じて苦しいだけなのかもしれないけれど。卑小な人間だから。

19時に仕事をあがることができたので、家に帰ってから冬瓜とナスと鶏肉の煮物を作った。味を感じにくいので少し濃くなったかもしれないけど、冬瓜という野菜は夏らしいのに少し秋冬めいてもいて、とてもよい野菜だと思っているので、おいしくできたと思うことにした。ところで、もしこの先一生自分のためだけに料理をしていくのだとしたら、私はこの盛大に煮崩れしたナスや料理なのかなこれは?というような豆腐とチーズを合わせた何かやなんとも単純な味になってしまったトマト煮込みなどを、こんなもんだろうと思いながらずっと改善することなく作り続けるのだろうか。それはちょっとどうなのかな、と思わなくもないのだ実際のところは。

沼田真祐『影裏』読了。沼田さんによる川上弘美の小説の解説を読み、この人の文章はすごく好みだと思って本を取り寄せたのだが、正直ものすごくいいというわけではなかった。確かに文章は澱みなく美しく、私の好みのリズムでもあり、なるほど美文をもって芥川賞を受賞しただけあるという感じなのだが、なんというか…あまり刺さるところがなかった。明確なメッセージのある小説を好むわけではないけれど、明確なメッセージがないということは別に伝わってくるものが何もないというわけではなく、ただこの本からは特に何も伝わってこなかった。期待していただけに残念。今朝からは金原ひとみの『オートフィクション』を読み始めたが、一行目からああもうこれ私が大好きなやつだよと高揚した。同じ作家ばかりグルグルしてしまうのはよくないのかもしれないけれど、やっぱり私は金原ひとみの文章の、たとえ感じたくなくても否応なく伝わってきてしまうような強烈な感情がたまらなく好きだ。