ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(うまく日記が書けない)

 
8/29まだ夏なんですか?そこそこ暑い。


なんとなくというしかないけれど、Twitterでつぶやく気になれずにいた。当たり前か。朝目覚めた瞬間何故か今日は三重に行く日なのだと思い、世界がしゅしゅしゅと整っていく中で昨日の発表の記憶がきちんと戻ってきて、そうだったわ仕事行くんだわとここまで数秒、ほんの少し悲しかった。行けない日程に振り替えられたり中止になったりした時のショックがこわくて、あまり考えないようにしていたい。期待せずにいることでショックを軽減するという戦略を全面的に採用して生きてきた。喜びより悲しさの方が私にとっては意味深く、何年も何年も前の悲しさやショックがいまだにうまく開けられなかったピアスホールのように不安定な傷として残っていてたまに開けたばかりのようにジクジクと膿むことを知っているから、できるだけ傷つかずに生きていきたいと思っている。それでいいと思っている。
どうでもいいことだね。あまり動揺せずに生きていきたい。あるいは、動揺していることを悟られないように生きていきたい。もっとかっこよく、もっとやっていることに自信を持って、もっと高く、もっと上に…。なんの話をしているんだろう。日記を書きたいだけなのに。
まあ正直ほとんど自分しか見ていないとはいえ公開にしている日記に仕事の詳細を書くことはできないので、1日のほとんどを職場で過ごしている以上書くことがないのは必然なのかもしれなかった。うちの会社、固定電話を取る人間が少なすぎて業務に支障出ている。流石に文句を言いたい。電話を取るたびに仕事が増えていくのだからみんな取りたくないに決まっているが、電話取りまくらざるを得ない私が20時過ぎまで仕事が終わらず残業しているのに固定電話のある席に座っているくせに全然電話を取らない奴が定時で退勤していくのを見ると「おいてめえ」と言いたくなるのは仕方ないのではないか。こんなことくらいしか書くことがない。案件がバラバラとあって疲労も溜まり頭のなかがいつもよりもぼんやりと漫然としていると思う。やはりコンサータを再開した方がいいのかもしれない。でも一生コンサータを飲んでいるわけにもいかないし、コンサータに依存してしまうのが怖くてやめてしまっている。普通に発達障害だと診断されているわけだが、その診断が下った瞬間から私は「自分はあえて発達障害だと診断が下るような回答をしたのだ」と思い込んでいる節があって、もちろんそんなことは加味された検査ではあったのだろうが、私は自分のことを発達障害であるともそうでないとも思えずにいる。どちらでもよいことだ。どちらでも現実は変わらないのだから。
金原ひとみのあとに川上弘美を選んだのは本当に正解で、並の文体及び内容の小説では到底食い負けてしまうような文の力も、川上弘美の前ではふぅんと毒気を抜かれて、ただやわらかくゆったりとして、おおらかで繊細なものがなしい空気の中に溶け込んでいくのだった。いいなあ好きだなあ。帰宅してポストを覗くとサマーカードはまだ届いていなくて、代わり注文しておいた本が二冊届いていた。いただきものの杏仁豆腐を食す。

思い出したこと:

今日の朝はとても久しぶりにスピッツではない音楽を聴いた。ヴォーン・ウィリアムスの揚げひばりとシューベルトピアノソナタ18番の1楽章。この2,3年ほど文字通りスピッツばかりを聴いていて離れがちだけれど、クラシックには(というと主語が大きすぎるかもしれないが)私などが少しばかり変わったところで何も変わらない美しさでそこにあり続けるのだという重さがある。どちらも本当に昔から大切に聴いてきた曲だけれど、とりわけシューベルトの18番は特別だとあらためて思う。音楽を分かち合うのではなく音楽と分かち合うという経験は私の人生において救いであって、私はそれをスピッツに見出したようにシューベルトのいくつかの曲にも見出している。今はあまり聴いていなくても、手の届く場所にこの音楽があるということが、私にとってとても大切なことなのだと思った。