ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(さまざまな演技のこと)

8/28よく覚えていない、ベトついた空気


あまりうまく心がまとまっておらず、もうダメかもしれないと思った。朝からおかしかった。電車の中で呆然と外を眺め、会社に行く途中不死身のビーナスを聴きながら泣き出したくて叫び出したいのを一生懸命に堪えて、こんな気持ちで仕事なんてできるわけがないここに立ち止まったまま死んでしまいたいと思いながら引きずられるみたいにオフィスの階に降りて、同僚に挨拶をされた途端に満面の笑みでおはようございますと言うことができる、どこにも自分というものがいなくなったような気がしていた。まだ延期の発表はされていなくて、もしかしたらやるかもしれないと思っていたしそれほどライブのことを考えていたわけではなかったのに、それでもひどく気が立っていて、人から話しかけられ人に話しかけていなければマウスをデスクに叩きつけて喚き出しそうなくらい、なぜかおかしかった。だから昼休みに入ると同時にライブの延期の通知が届いた時、あ、終わったと思った。JTBのマイページからキャンセルの受付を終えた途端ボロボロ涙が溢れてきて、会社のビルのロビーで1時間ぼたぼた涙と洟水をこぼして泣いた。なんで私、ライブ延期の発表がされるのと同じタイミングで昼休みに入れるんだろう。休みの時間を自分で決められるシステムだから、何かそういうセンサーがついているのかもしれないすごいのかもしれない。別に悲しくない。スピッツに会うということは私にとって重要であると同時にそれほど重要なことではなく、だからなぜ私がこんなに取り乱して吐きそうになって子供みたいに顔面をぐちゃぐちゃにして公共の場のど真ん中で号泣しているのか意味がわからず、その意味がわからないことがさらに私を混乱させ動揺させた。「快方に向かっている」というひとことが本当に本当にうれしくて愛しくてスピッツのことがバカみたいに大好きで大切で、それなのに私は「よかった、その言葉が聞けただけで嬉しい、その判断が正しいよ」みたいな優しい言葉が飛び交う中で自分が三重にいけなくなったということにこんなにも動揺していて、それをTwitterに書き殴りそのことにさらに動揺して涙が止まらない。「延期のお知らせ見て安心した」とか「ほっとした」とかいうツイートが溢れているのを見るとヘドロみたいな感情が口から溢れ出して腐ってドロドロになってしまいそうだった。なんなんだ私、なんなんだ私。お前が死ねよ優しくなれないならお前が死ね。お前みたいな人間がスピッツを聴いているなんて反吐が出るから今すぐここから飛び降りて死ね。取り乱すそぶりもそのことについて謝る身振りも何もかも全て自己満足で、ちらちらと周りの反応を伺いながらこれみよがしにシクシクと泣く人間と何が違うんだろう。誰かの慰めを期待して大袈裟に泣き喚いて、慰めをもらったことが嬉しくてまた泣いた。私は結局自分が、自分だけが可愛くて仕方なくて、自分だけを見つめて自分のことだけを考えて生きている。
もうこんな顔でこんな状態で仕事になんて戻れるわけがないと思っていたのに昼休憩が終わるまでの時間を逆算している私がいて、10分前になれば化粧室で顔面の体裁を整え、5分前には食べ損ねた昼食としてパンを一つコンビニで購入して口に押し込み、平然と仕事に戻り同僚と和やかに会話しよそゆきの声で電話を取る。泣いている私も和やかな私も何もかもみんな演技なんだと思った。今だってこうしてこんな日にはやけ食いするんだと食品を買い込んで貪り食う演技をしながら苦しい悲しいつらい死にたいという文章を書く演技をしている。死にたいなんて1ミリも思っていないくせにいつか何かの拍子に今日のように動揺して死ぬ演技をしながら死ぬのかもしれない。そんなことにはなるはずがないと笑っていることができない。それとも演技と演技の間で引き裂かれていつか高速で回っている子供がふらついて転ぶように滑稽にバランスを崩して崩壊するのかもしれないけれど、その先にあるのはきっと崩壊した自分という演技なのだろう。もしもその崩壊の瞬間に本当の私になれるのだとしたら、私はそれに惹かれるが、惹かれているものに一致するのならばその瞬間、それは単なる演技になるのだろう。こんな気持ちで明日もその次もずっと仕事に行かなければならないなんて信じがたいし、そんなことは不可能であると泣き叫びたいけれど、それでも私は明日時間通りに目覚めいつも通りの支度をし動悸を抱えながら会社までたどり着き、そんなことがすべて嘘であるかのように笑顔で平然と仕事を開始するに違いない。