ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

日記(味がする、ワイドハイター、読んだ本)

8/20

迂闊にもコロナに罹患して以来、なんとなく味がわからなくなった。醤油をなめればしょっぱいとわかるしワサビをなめればからいとわかるしすし飯を食べればすっぱいとわかる(お寿司を食べていたのです)のだが、醤油が醤油でありワサビがワサビでありすし飯がすし飯であるという、その味がしなくなった。この感じは知っている気がして、これは私が生きているなかで漫然と感じていることなのだと思った。いまは悲しい瞬間なのだなあとかいまは喜ぶべき瞬間なのだなあとか、これはAさんなのだとかこれはBという場所なのだとか、そういうことはわかるのだが(わからなければ生きていけない)、それがまさにそれなのだという、その感じが欠如している世界に生きてきた気がする。味のしない世界、生きてるよねえ生きてるねえ、という他人事の世界。それがそこにあるという感じがない世界。あまり多くのことに関心がないのだと思う。つかみどころのないぼんやりとした世界の中に習慣と勘だけでぶらさがっている。だから私が関心を持つものというのはどういう現れ方をするのかというと、おもしろいとかすごいとかいう以前に「それがそれである」という味のする存在として現れるのだ。それがそれとしてそこにあるという、私はいま自分以外のものに初めて会いましたという感じがするのだ。

スピッツは味がした。私はスピッツスピッツとしてそこに存在しているというその感じに触れた。私にとってそのことは、他にほんとうはなんの説明も理由もいらないくらい、スピッツが好きだということそのものなのだ。なんとなく、スピッツの歌も、味のない世界で初めて味のある存在に出会ったということを歌っている気がしないだろうか?どうかな。私はそう思っている。

 

今日はワイドハイタープロで寝具を洗い(ものすごく汚れていて驚いた。期待以上。他のものもたくさん浸けてみよう)、去年の誕生日プレゼントに友人からもらった本を読んだ(ちなみにこの友人からは今年も別の本をもらい、その本はまだ読んでいない。こんな私にそれでも毎年本を贈ってくれる彼女のことが好きだ)。佐藤多佳子の『サマータイム』、彼女は六、七年前に大学の生協の本屋を物色している時この本について話して聞かせてくれ、それを去年誕生日にプレゼントしてくれた。そして私はそれを今日読んだというわけで、さすがに生きるスピードが遅すぎるのではないか。

広一と種田さんのお話と、佳奈とセンダくんのお話がしみじみとよかった。少しこそばゆい感じはしたけど。ピアノという点で一瞬交差した3人が、それをそれぞれに昇華させていく感じ、それは二度と交わらないのだけどそれぞれの人生の中にきちんと場所を見つけていく感じがとても繊細だと思った。やっと読んだよと報告できるけどこんなに遅くなってしまって、かえってしないほうがいいのだろうか?来月の彼女の誕生日には笹井宏之の『えーえんとくちから』をプレゼントするのがいいかなといまは考え中。彼女は一瞬だけフランス語で詩を書いたりしていたので(これがまた教授を唸らせるくらいに上手だったのである)。