ひとりごと

つきみおが長文でひとりごとを言います

i-O(修理のうた)

 5月17日、日付が変わると同時に期待と不安を抱き締めるようにして聴いた新アルバムの一曲目は、数年前に初めてスピッツの曲を聴いた時に覚えたのと同じ衝撃を私にくれた。スピッツがあまりにもスピッツであることに、私は感動した。なぜこんなにも「これはスピッツである」と思ったのか、そのわけを考えてみたいと思った。もちろん曲の聴き方は聴き手の数だけ存在するし、私自身も自分の感覚に疑問の余地がないではない。だから以下に綴るのは、私がこの曲を聴いて感じた今現在の「私にとってのスピッツ」でしかあり得ないのだけれど、二人称の関係であるということがスピッツの本質なのだとしたら、このような個人的で不確かな解釈もまた許されるのではないかと信じたいと思う。

 

 

 「何度壊れても直せるから」というたのもしく優しい言葉でこのアルバムの幕を開けてくれたということに、まずは素直に感動したい。この歌詞はもちろん大きな文脈で捉えるならば、草野自身がそう語っていたようにコロナや戦争で傷付き壊れた歴史的世界の中で生まれた言葉なのだろう。しかし同時に、そのような歴史的文脈を超えて、これはより普遍的なメッセージでもある。スピッツが歌い続けている小さな物語の中で、言い換えるなら各々の「歴史に残らない独自のストーリー」の中で、一度も壊れずに生きてこられた人などいないのだ。他人には見向きもされないようなその小さく個別的な故障や崩壊たちにこそ、きっと冒頭のフレーズは向けられている。

 思えばスピッツの曲には、いつもどこか、そんなふうに壊れてしまったものの気配があった。けれどいま彼らは、なにかが壊れてしまったあとどうしたらいいのか戸惑いながら生きてきたこと、それが楽しいのだと言う。やさしいけれど、決して軽い言葉ではない。何が答えなのかわからなくとも確かに生きてきた強かさ、生きていることへの確かな実感がそこにはあると思う。もしかつて「君」というもはやその場にはいない存在がその「冷たさ」によって表されてきたのだとすれば(『冷たい頬』『さらさら』など)、僕は今、温かいのだ。

 

 何度壊れても直すことはできるけれど、壊れて修理された心は決して完璧な心ではないのだと、次のフレーズでスピッツは言う。わたしたちの心は新品ではなく、ゆがみ、傷痕を残しながら生きていくしかない。なかったことにはできないのだと。そしてそれを包み込むために選ばれた言葉が「可愛くありたい」である。

 可愛くありたい、不思議な言葉ではないか。この歌詞の中に置かれる言葉としてはなおさら。にもかかわらずスピッツの聴き手にとってそれが馴染み深いのは、彼らがこれまでずっと「かわいいもの」について歌ってきたからに他ならない。

「死と性などというのはポーズにすぎず、本当はただかわいいものを歌いたかった」というスピッツについて、その「かわいさ」とは何かと詮索するのは不粋以外の何物でもないだろう。それを承知の上で敢えて純粋に私の感じたことを言うならば、スピッツ的な「かわいさ」とは、ある種の「傷つきやすさ」関わるものではないだろうか。そもそも「かわいい」という日本語には愛すべきもの、愛しいものという意味と同時に、取るに足らないもの、弱いものというニュアンスがあるが、スピッツが歌うかわいいものもまた、私の聴く限り、皆「客観的に見れば取るに足らない弱いもの」であるように思う。その「かわいさ」という弱さは、何よりもまず僕のあこがれとして、愛おしむべきものとして存在しているだろう。しかしまた、その弱さが僕の加虐性の対象になる限りで、僕は「かわいいもの」をかわいいと言う強い者として存在しもしてしまうという感覚が、スピッツのいくつかの曲には感じられるのではないか。スピッツ的な僕は、虐げられる側であると同時に虐げる側でもあるという葛藤を抱えているのである(『未来未来』『楓』『初恋クレイジー』他)。「かわいさ」を蔑むマッチョ的文脈に生きてきたスピッツだからこそ、かわいさが相対的な弱さにかかわるものであることに自覚的なのではないかと私は思ってしまう。「かわいい」ということと加虐の対象になるということ、すなわち傷付くということは、スピッツの楽曲においておそらく無関係ではない。そして、そのようなかわいいものの当事者であると同時に他者でもあるような存在として、僕はかわいさに憧れるのである。

 草野は以前、平和な世の中じゃないとかわいいなんて言葉は出てこないという主旨の発言をしているが、それは「かわいさ」がこのような意味での無防備さをはらんでいるからだろう。無防備であるが故に容易に傷つけられ、しかし傷つけることからは無縁であるような、そんな受動的なあり方。「かわいさ」は傷塗れであると同時に、その傷つきやすさを愛おしむという意味において、朗らかである。そのように考えてよいのだとすれば、「可愛くありたい」という願いは「傷つきやすさ」を肯定するある種の倫理ですらあるだろう。それを言葉にできるのは、生きることの困難さや暴力性、傷の痛みを超えて、「ハレの日」というささやかな祝福のときなのだ。

 

 

 祝福の光の中で、僕は愛をくれた君と同じ荒野を歩き、同じ空を泳いでいく。色々な捉え方があるだろうけれど、そのとき僕と君とは一緒に歩いてはいないのだと私は思う。スピッツの曲全てがそうであるとは言わない。しかし『チェリー』や『楓』でさよなら、忘れないよと君を思い歩いていく僕が君と一緒にはいなかったように、「一人歩いていける」力をくれるものこそが君なのだ(『砂漠の花』)という感覚はスピッツの楽曲の根幹にあるだろう。その意味で、僕が一人で歩いていくこの世界は君のいない孤独な世界ではない。一度は失ったと思われた坂の途中で聞いた声が「再び」呼び覚まされる瞬間、それがスピッツがずっと祈るように歌い続けてきた「再会」の瞬間なのであれば、僕はついに(おそらくは)君の声を抱いて、君がくれた光の中を一人歩いて行けるのである。

 

 かつて『フェイクファー』で歌われた君からの愛は、それが偽物なのか真実なのかは永遠にわかり得ないという他者に同一化することの不可能性と挫折、あるいは全てがいつか終わるという諦念をいっとき中断するようにして、君という特別な他者から贈られるものだった。それはいつか幻として失われるとしてもかまわないと思わせてくれるような、束の間の幸せな錯乱だった(『冷たい頬』)。そして今、ひみつスタジオのスピッツは「偽りの向こう」へと向かう。その先に彼らが求めているのはおそらく「真実」などではないだろう。この曲において、君のくれた愛は刹那の贈り物であることを超えて、なかったことになり得ないものとして、偽りでは済ませられない僕の人生を照らす歌になる。偽りの向こうとはきっと、偽りにも見えた君と僕自身のことを、にもかかわらず強く信じ歩いて行く先にある。だからきっと修理のうたは、かつて「君」という存在の喪失を歌った僕の再会と回復のうたでもあるのだ。

 

 スピッツ、人並みに傷つきそして楽しく生きてきた私の人生にこんな歌を贈ってくれてありがとう。「君に会えてよかった」と思う。